「ユダヤ文化論」の講義。何を話すのか一応決めて教場にゆくのであるが、毎回どういうわけかその話をせずに、その場の思いつき話をしてしまう。
昨日は日猶同祖論から猶スコ同祖論(ユダヤ人とスコットランド人は同祖であるという物語)の話に転がって、ブラック・セミノール族はどうしてアフリカ系であると言わずにネイティヴ・アメリカン系であると称するのかという話から、ヴィシー政権の話になって、複雑系とバタフライ効果の話になって、最後はフランス革命陰謀説になって時間切れ。
この流れからすると、来週はオーギュスタン・バリュエルとか聖堂騎士団とかセルゲイ・ニルスとかロシア秘密警察とか、そういう話になりそうな気もする。
ことがユダヤとなると、どうしてもこういう「怪しい話」が続々出てきてしまう。
学生さんたちは必死でノートを取っていたが、あまりノートを取るような性質の話ではないような気もする。
さらっと聞き流してね。
神戸女学院の人間科学部の学生があちこちの「ネット日記有名人」(そういうものがいるらしい)に、卒論研究の資料にしたいので、アンケートにお答えくださいというメールを出したら、どうもよほど失礼な書き方をしたらしく、人にものを頼む礼儀がなってないというお怒りの声が二三の日記に掲載された。
困ったものである。
ネット上でいま神戸女学院のことが話題になってますよ、とお知らせ下さった方があり、人間科学部の事務室に問い合わせて真偽を確かめたら、すでに事務室には抗議のメールが届いていた。
そのときの調べでは、学生に該当する卒論テーマのものがおらず、もしかしたら大学の名前を騙ったいたずらかなとも思ったのであるが、うちの学生が指導教員の許可を得ずに行ったものであることがその後判明した。
どういう趣旨の調査であるかを明記せず、ゼミの名前も指導教官の名前も出さずに、見ず知らずの人にアンケートを頼むというのはたしかに失礼な話だ。
このすぐに「アンケートを取る」という調査のスタイルがどうも私にはよくわからない。
私のところにもさまざまなアンケートが来るし、私のゼミ生でも、何かというと「では、アンケートを取って…」ということをいい出す学生がいる。
よほどこの調査方法の有効性について信憑が根づいているのであろう。
学校教育のどこかの段階で「アンケート調査の有効性」ということを教えているのかもしれない。
だが、私が経験したほとんどのアンケート調査は、設問のうちにすでに調査者が求めている「答え」が透けて見えるものであった。
自分がすでに知っている答えを補強するために、他人を「ダシ」に使うという姿勢を私は好まない。
私が卒論研究の学生にはアンケートではなく、インタビューを薦めている。
インタビュイーは必ずインタビュアーの用意したフレームを外れることを言い出すからである。
調査研究を通じてある問題についての理解を深めたいと望むなら、「自分が聴く用意のなかったこと」を言い出す人間に出会うことが必要である。
その必要性がわからない人間は、どれほどの時間を費やしても、結局、「勉強」から「研究」へのテイクオフを果たすことができない。
アンケート調査であちこちの人を怒らせたこの学生の問題は、「自分の常識」の汎通性を過大評価した点にある。
自分にとっての「ふつう」が他の人々にとっても無条件に「ふつう」で通ると思ったことにある。
自分の常識の汎通性を過大評価することを「無知」と呼ぶ。
大学卒業前に、そのこと一つだけでも学んだのであれば、以て奇貨とすべきか。
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(2004-11-23 10:27)