鰻とディセンシーと日猶同祖論

2004-11-17 mercredi

11月17日
『AERA』の取材で、I川記者が来る。
彼は前に村上春樹『アフターダーク』の特集のときにも、インタビューに来てくれた、たいへん「聞き上手」なジャーナリストである。
今回の特集は「ディセンシー」。
「礼儀正しいことは、なぜ生きる上で必要か?」
という、本来小学生に教えなければならないことを、30-40代女性を主なる対象とする『AERA』誌上で開陳しなければならないというのが、この問題の根深さを語っている。
ウチダの説は

(1)「礼儀正しい」というのは「型通り」ということであるが、「型通り」のルーティンを守ることは、生存戦略上有利である。
なぜなら、ルーティンを守っている人間はそうでない人間にくらべて「いつもと違うこと」の発生を察知する確率が高いからである(地下鉄サリン事件のとき、「毎朝、同じ時間の電車の、同じ車両に乗って通勤しているOLが、『見たことのない不審な風体の男たち』が乗り合わせているのを見て、『なんだか気分が悪くなって』途中下車し、難を逃れた、という故事がある。これこそが「ルーティンの手柄」というものである)。

(2)「型通り」を「自己表現の断念」というふうに否定的にとらえる人がいるが、「その局面においてもっとも適切な型」を選択できるかどうかは、個人の社会的能力を査定する上で、おそらくいちばん重視されている点である。
「決められた型」を「型通り」に演じてみせるためには、場を構成する人間関係の序列や位階、自分がそこで果たすべき機能を見きわめ、用いるべき語詞、声の音質、身体操作などを適切に選択することが必要であり、そのためには長期にわたる訓練と人間観察が不可欠である。
だから「型を使う」能力を、私たちはその人の社会的能力そのものの指標に取ることができる。

(3)「礼儀正しい酔っぱらい」(polite drunk) はレイモンド・チャンドラーから村上春樹、矢作俊彦にいたる「ハードボイルド」物語群における「キーパーソン」である。
「酔っぱらい」というのは自己防衛能力が極端に低下した状態であるが、このときに利己的にふるまうことを自制し、なおポライトネスを維持できる人間の「社会的能力の高さ」に対して「汚れた街の騎士」たちは敬意を禁じることができないのである。

(1)からわかるように、礼儀知らずが増えた最大の理由は、私たちの生きている世界がろくな生存戦略を持たない人間でも生きていけるほどに「安全」なものだったからである。
だから、逆に言えば、「礼儀正しいことの必要性」が改めて言われるようになったということは、世の中がそれだけ「危険」なものになったということである。
野生動物の世界と違って、人間社会が「危険」になる理由は一つしかない。
それは「バカ」が権力と財貨と情報を占有しはじめた、ということである。
(2)からわかるように、礼儀知らずが増えた第二の理由は「自己表現」とか「自己実現」とか「私らしさ」とか「オリジナリティ」とかいう悪質なイデオロギーをメディアがまき散らしたせいである。
ごらんの通り、このイデオロギーに煽られて「内面を思うがままに表出し、そのオリジナリティを十全に発揮している人間」たちは、その「コミュニケーション能力の低さ」「場を読む能力の低さ」「適切な身体操作をする能力の低さ」において、相互にみわけがたいほどカオス化している。
バルトが言ったとおり、俗人が信じているのとは反対に、われわれの「内面」というのは、その外面が取りうる多様性と過激さに比すと、驚くほど「貧困」なのである。

『AERA』仕事のあとは、ゼミ面接、それからゼミを二つ。
大学院は「アメリカペット事情」。
「ペットは現代のトーテムだ」という変痴奇論をぶつが、これが院生諸君にはけっこう好評。
さすがに午前中からしゃべりっぱなしで、喉が涸れた。
そのまま梅田までソッコーで移動して、「うな正会」集会へ。
「うな正会」とは「街のいけないうなぎを正す会」の略称であり、会長・江弘毅『ミーツ』編集長と、副会長・ドクター佐藤の二名で発足し、その活発な活動はすでにドクターの日記に詳述されたとおりであるが、これにミヤタケ、ナガミツなどが加入を企画しているとの報に触れて、「このままではカジュアルな鰻食いたちに鰻屋が占拠されてしまう」と危機感を抱いた不肖ウチダが「ネクタイをゆるめ、ワイシャツの袖をまくって、『ま、一杯、いこか』と相客のグラスにビールを注ぎつつ鰻を食べる日本の正しいおじさん」を代表していっちょかみさせて頂いたのである。
場所は肥後橋の「だい富」。ここは「うな正会」発足の地、「うな正会のエルサレム」、あるいは「うな正会のメッカ」ともいうべき聖地である。
今回はドクター不参加のため、会長ほか本日入会会員三名によって粛々とビールを喫しつつ、「うまき」「竹丼」などをありがたくご賞味する。
帰途、堂島の White label で水割りを飲む。
そこに『エルマガ』のF田くんが合流。
F田くんはウッキーとともに「ふるふるコンビ」として、ウチダゼミの名物だった二人のかたわれであり、岡田山にゴルチエの光り物をじゃらじゃらさせて登場して、良識ある女学院生を顔色なからしめた伝説のゴシック女である。
ほとんど社会的適応性のない人物であったが(高校時代に生徒会長であったというのが信じられない)、江さんに頼んで、エルマガに無理矢理押し込んだら、三年ほどの徒弟修業の甲斐あってか、なかなかスマートな社会人に仕上がっていた。生徒会長的エートスが蘇生したのかもしれない。

11月16日
朝刊を拡げたら『現代思想のパフォーマンス』の広告が出ていた。
「内田樹が畏友難波江和英と著した・・・」というコピーを見て、びっくり。
これは正確な記述とはいえない。
単行本あとがきにも記したことであるが、『現代思想のぱ』(と以下略称)のもともとのアイディアは難波江さんが考え出したものであり、彼が企画書を書き、出版社を探し当て、印税だのなんだのもろもろのビジネス的業務をすべて片づけて、私はただナバちゃんが言うままに原稿をこりこり書いただけである。
『ぱ』(さらに略す)はひとことで言えば、「難波江さんがウチダを頤使して著した」本である。
しかし、事実をそのままに書くと、それなりに問題はありそうな気もする。
「ウチダのような態度の悪い男を顎で使うとは、ナバちゃんというのはウチダ以上に暴力的権力的なタイプの人物なのではあるまいか」というような勘ぐりをされると、難波江さんにはたいへん気の毒である。
それに「難波江和英が」を主語にした場合、ウチダに冠する「友」の形容詞に窮する。
どう考えても、「悪友」以外にないが、「難波江和英が悪友内田樹と著した・・・」では光文社編集部が私を「悪人」であると公的に認定したことになり、それはそれで剣呑な事態となりかねない。
「ナバちゃん、ウッチーのサルわか現代思想入門」ではあまりに読者を愚弄しているし。
「難波江和英と内田樹が著した」では単なる事実認知であって、「コピー」にはならないし。やはり、ああいう表現を甘受する他ないのであろうか。
ユダヤ文化論の授業を聴講に、『文學界』の山下さんがやってくる。
ウチダがどのようなヨタ話をしているのか、連載に先だって調査に来られたのである。
彼女はまだ入社3年目の24歳なので、学生にまじってもわからない。
せっかくおいでになるので、わざわざ『文學界』用に「構築主義と『ユダヤ人』のシニフィアン」というハイブラウなテーマを用意した。
しかし、「どうして日本で反ユダヤ本がベストセラーになるのか?」という先週の宿題の答えを聞きながら授業を始めたら、結局その話に終始してしまい、最後は日猶同祖論の話になって、ぐちゃぐちゃになってしまった。
日猶同祖論というのは「日本人とユダヤ人は祖先を同じくする同族である」と主張する奇々怪々な理説で、明治末年から大正にかけて、中田重治、佐伯好郎、小谷部全一郎らが唱道したものである。
このイデオローグに共通するのは、

(1)明治維新前後生まれ
(2)アメリカ留学経験者
(3)クリスチャン

ということである。
どうして彼らが内村鑑三や新渡戸稲造みたいにならず、狂信的な皇国史観を信奉するに至ったのかを考察すると、今日の「対米追随外交」に伏流する「嫌米気分」のよってきたるところが理解できる、というのがウチダの持論である。
日猶同祖論は「黒船トラウマ」以来の西洋=キリスト教文明に対する絶対的なビハインドを一気に解消するために、明治の新帰朝青年知識人が考案した起死回生の奇策である。
「神州日本はその霊的位階において、西洋=キリスト文明よりも上位にある」という「攘夷思想」を精神史的に合理化するために、彼らはユダヤ人を「発見」したのである(ある種の個別的政策課題のためには政治的「表象」が必要であることについては、幕末の「尊皇攘夷」運動で日本人は経験済みであった)。
ユダヤ人とは実体ではなく、人々が自分自身を世界史の中に位置づけるときの分節の形式として選択されたのである。
だが、なぜ、ユダヤは「カテゴリー」となりえたのであろうか?
というようなお話をする。
学生諸君には、ちょっとむずかしかったかな。
続いて杖道のお稽古。
アメリカから来た高校生のケイトくんは、引落打ができないので、半べそ状態になっている。「身体を割る」という身体運用概念がどうしても理解できないらしい。
気の毒だが、これが異文化の壁というものなのだのよ。
武道的身体文法で身体を使うというのは、「新しい言語を覚えて、それで話す」のとおなじことなのだ。
「できない」ということをおのれ不能の徴候としてではなく、学びつつある技法の未知性の徴候として受け容れることができるかどうか、ケイトくんが来週の稽古に来るかどうかは、この決断にかかっている。
--------