そのつど晩年

2004-11-12 vendredi

目やにが出るので、目医者にゆく。
結膜炎という診断で、目薬をもらう。
視力検査をしてもらったら、視力がずいぶん落ちているので、コンタクトをいれることにする。
私は数年に一度の頻度で発作的に「コンタクトを入れることにする」という決断を二十歳くらいから限りなく繰り返しているような気がする。
なぜか、長続きしないんだな、これが。

K川書店から編集者さまご一行妙齢の女性が三名おいでになる。
東京から来るとたいへんですから用事があれば電話でいいですよ、と何度もお断りしたのだが、結局おいでになった。
三人分の出張旅費を使って、一日つぶして来たんですから…という無言の(ほとんど有言の)圧力を加えられて(ウチダはこういう「義理」方面からの攻めには弱い)、K川から新しい本を一冊出すことになる。
その代り、(すでに繰り返し告知しているように)これまでお引き受けしたあちこちからのお仕事のうち過去一年間督促のなかったものはすべて「チャラ」にさせていただくことにする。
借金と同じで、「督促」が一年以上なかった出版企画は、先方が「債権放棄」したとみなさせて頂くことにしたのである。
申し訳ないが、世の中というのは、そういうものである。
医学書院の白石さんのような確信犯的「後出しじゃんけん、横入り」編集者が結局は「油揚げ」をさらってゆくのである。
そのK川書店の女性編集者たちは「30代女性のための人生ハウツー本」をご所望のようであった。
「老いることへの焦燥」「老いのロールモデルの不在」がどうも30代女性を苦しめておられるようである。
だが、私にはむしろどうして「老いる」ということが、「忌まわしいもの」として、彼女たちにそれほどリアルに感知されるのか、その方が不思議である。
「加齢」という概念は、逆説的なことだが「不老不死」モデルを無批判的に前提にしている人間においてしか成り立たない。
例えば30歳の人間が加齢を恐れるのは、「平均余命が80歳として、あと50年生きる訳か…」というふうに「人生ロードマップ」を描くことができると思っているからである。
「0歳のときの自分」から始まって、「10歳、20歳、30歳、40歳、50歳、60歳、70歳、80歳…の自分」を等間隔で配列し、それを一望俯瞰する想像的視座に自分は立てると思い込んでいる人間だけが「加齢」という概念を持つことができる。
そういう人間だけが、年を取ることを恐れる。
「年を取って、死ぬ自分」について、(まだ老いてもいないし、死んでもいない段階で)、一通りの見通しが立てられると思っている人間だけが老いを恐れ、死を恐れる。
だが、このような見通しにはどんな根拠があるのか?
平均余命が80歳であるということは、あなたが80歳まで生きるということを保証しない。そうでしょ?
そのあなたが、家から一歩表に出たとたんにトラックにはねられて死んでしまう確率はいつだってあるからである。
死の本質は、「人間は必ず死ぬ」という確実性にではなく、「人間はいつ死ぬかわからない」という不確実性のうちに存する。
人間はそのつど晩年を生きているのである。
「そのつど晩年を生きている人間」には「加齢」という概念は到来しない。
そのような人間には、蓄積してきた過去の時間と、かけがえのない現在という時間だけがある。
「死なないつもり」でいる人間だけが加齢による美貌の衰えを恐れ、老いによる体力の低下を恐れ、病の苦しみを恐れる。
人間を不幸にしているのは、「未来を見通せる」という賢しらである。
というような話をしているうちに、「では、それを本にしましょう」ということになる。
うう、また仕事を増やしてしまった。

小田嶋先生のブログを毎日楽しみに読んでいるのだが、島田紳助の一件で一時期だいぶブログが荒れたことがある。
それに対するオダジマ先生のおことばが今日出ていたので、謹んで採録させていただく。
この原則はウチダブログにおいても、そのまま採用させていただくことにする。

各記事へのコメントに対して、いまのところ小田嶋は反応したりしなかったり、ケースバイケースで対応しています。
もう少し具体的な言い方をすると、要するに「答えやすい質問や気に入ったコメントにだけ反応している」わけです。
あるいは、無視されて不愉快に感じている方がおられるかもしれませんので、以下に、皆さんからいただいたコメントに対する当方の対応について、おおまかな原則を記しておきます。
荒らしはスルー
煽りは放置
内容が立派でも口調が失礼なコメントには対応いたしません
普通の読解力があれば理解できる内容についての不要な質問にはお答えしません
小田嶋の痛いところを突いた質問、または小田嶋を完全に論破し去ったコメントに対しては、グウの音も出ません
つまりまあ、ここではオレが王様だよ、と。
これぐらいの独裁権がないとブログなんてやってられません。

そのオダジマ先生と並んで、ウチダが「現代日本を代表する批評的知性」とかねがね敬慕している町山智浩先生の『底抜け合衆国』(洋泉社)を昨日読了。
『底抜け合衆国』と『アメリカ横断TVガイド』は私がこの数年のあいだに読んだアメリカ文化論の中でもっとも良質のものであった。
かかるマチヤマ先生の業績にたいして、日本のメディアはほとんど「黙殺」をもって対応しているようであるが、そういうことでよろしいのであろうか。
心ある青少年は、なにはともあれ(騙されたと思って)(というのは人を騙すときの常套手段だが)、小田嶋隆と町山智浩の本を読みなさい。
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