ジェンダー論の現在と秋の夜の酒

2004-11-10 mercredi

次々と本が出る。
ナバちゃんとの共著、『現代思想のパフォーマンス・新書ヴァージョン』(光文社新書)。これは松柏社から出したオリジナル・ヴァージョンの改訂版。お値段1000円。これはお買い得です。
もうひとつ。『岩波応用倫理学講義5性/愛』(金井淑子編・岩波書店)が届く。
「性/愛と共生の倫理 性愛の、過激に変容する現実。ジェンダー論からポスト・フェミニズムまで〈身体/関係〉の倫理の最深部に」という盛りだくさんな帯がついている。
私はここに「セックスワーク論」を寄稿している。
どうしてウチダのような「ジェンダーのことでがたがた言うのはもうやめませんか論者」がジェンダー論の巻に寄稿するのか理解できないというジェンダー論関係の皆さんも多々おられることであろう。
私にだって理解できない。
あるいは編集の金井先生が「アンチ・フェミニスト」を公称する人間に「セックスワーク論」のような難儀な論件を振ったら、どんなことを書いてよこすか、興味があって人選せられたのかも知れない。
私とはとんと無縁の領域の話題なので、いただいた本をひらいて、ほかの執筆者の方々の書かれたものもぱらぱらと読んでみたけれど、(三砂先生のものを除くと)どれもなんだか難しい話ばかりで、私の頭ではよく理解できなかった。
「性/愛と共生の倫理」というのは、私たちすべてが喫緊に理解する必要のある重要な論件であると思うのだが、どうもたくさん勉強して、いろいろなむずかしい用語を使いこなせない人間はそういう話には参加できないようである。
たとえば次のような文章をあなたはすらすらと理解できるだろうか。

「フェミニスト経済学であれば、ここは方法的に、中間領域論と現状分析に分かれると思います。グローバリゼーション研究ということを例にとれば、現在のグローバリゼーションの最新局面で何が起きているかということを析出するのに、ケアの国際移転、再生産領域のグローバルな再編過程をみていく。これはたんに、現在のグローバルな資本主義のものでのジェンダー関係に変化が起きていることを示す事象を追っているというだけではありません。むしろ逆に、現代のグローバル資本主義の性格そのものを、いかにフェミニズムの側から批判し再規定するのかという理論課題を含んでいます。ここが方法論的には、中間領域論と現状分析が、入れ子状でありつつ分節化できるという地点なのです。」(255頁)

申し訳ないが、私にはこの人が性や愛といったリアルな問題についてほんとうのところ何を言いたいのか、まるで想像がつかなかった。
しかし、このような韜晦に頼らざるを得ないという点に現在におけるジェンダー論の行き詰まりは徴候化しているのかもしれない。
ともかく、ジェンダー論の現在を知りたい思う読者には格好の書物である。
とりわけ、金井先生の巻頭論文はフェミニズムの窮状をたいへん率直に叙していて、私は深い共感をもって読んだ。

それから『言語と文学』(書肆心水)。これは来月に出る予定の本。
モーリス・ブランショの「文学はいかにして可能か」「言語についての探求」「文学に於ける神秘」(山邑久仁子訳)、ジャン・ポーラン「タルブの花」(野村英夫訳)の翻訳四編に、山邑久仁子「文学的テロリズムの逢着点―『タルブの花』とモーリス・ブランショ」と、私の「面従腹背のテロリズム―『文学はいかにして可能か』のもう一つの読解可能性」という二編の研究論文がついて、予価3600円。
16年前に書いたまま筐底に眠っていた思想史研究が日の目を見たという点で、ウチダ的にはありがたい企画であるが、あまり「一般向き」ではない。あくまで「そういう人」向きの本であるので、買った後に「何の話だかぜんぜんわからなかった」と文句を言われても困る。

ゼミ面接二日目。次々と面白い学生さんたちがやってきて、面白い話をしてくれるので、ますます人選が困難なものとなってゆく。うう、困った。
大学院は「アメリカにおける児童虐待」。
先週の「肥満」にも通じる話であるが、私たちが気をつけるべきことのひとつは、アメリカにおける「子ども」のイメージが私たちのそれとは微妙に違う、ということである。
『「子ども」の誕生』というフィリップ・アリエスの社会史研究が私たちに教えてくれたことは、ヨーロッパでは「子ども」が成人の保護を必要とする可憐な存在という概念を獲得したのは、近世以後だということである。それまで、子どもは「小さい大人」「能力の低い大人」「重要性の低い大人」(mineur)として扱われていたのである。
当然、そのような差別的境涯にある「子ども」は、それなりの「戦略」を持たないと大人に伍してリソースの分配に与ることはできない。
フィジカルな力が脆弱であるものは「狡知」をもって補うしかない。
したがって、欧米において(とくにアメリカにおいて)「子ども」に賦与された基本的な社会的特性の第一は「狡猾さと攻撃性」であった。
『トムとジェリー』に代表される「小動物による相対的に巨大な動物へのエンドレスの欺瞞と裏切り」説話はアメリカでは定番だが、わが国にはなかなか類するものが見あたらない(強いて探せば「かちかち山」だが、これは太宰治の卓抜な読解が教えるように、「少女の中年男への生理的嫌悪」と解釈する方がおさまりがいい)。
『ホーム・アローン』というのもカルキン坊やの狡知と(ほとんど節度を失った)暴力性が印象的であった。
『キンダーガルテンもの』『保育所もの』というジャンルも存在するが、それらすべてに共通するのは、「度し難い悪童たちに、ひとのよい大人が振り回される」という話型であって、「無垢で純真な子どもたちが、邪悪な大人によって繰り返し損なわれ、傷つけられる」という話型はアメリカ映画では好まれない。
「児童虐待」という問題を考えるときには、当該社会において「児童」という社会的存在が「どのようなもの」として観念されているか、自分たちの社会における同一語をそのまま適用することを自制することがたいせつであるように私には思われた。

授業の後、梅田にかけつけて学友、堺勤務の伊藤君と広島からの帰途の松本君と久闊を叙す。
亀寿司中店で中トロを食べようと思ったら、中店はお休み。
お隣の亀寿司総本店でお造り、お寿司をぱくぱく食べてビールを呑みつつ、病気の話、老母介護の話、古代史の話、物故した友人たちの話など「五十男のしみじみ話」をする。
「あいつと最後にあったのは、いつだい?」
「二年前だがね。まさか、あれが最後になるとは思わなかったよ」
というような問答が何人かの固有名とともに繰り返される。
きっとそれぞれに、「もしかすると、こいつともこれが今生の別れかも…」と思っているのだろう。
そう思って酌み交わす秋の夜の酒は、妙にしみじみ胃の腑にしみ入る。
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