ラカン的ゼミ面接

2004-11-09 mardi

ゼミの面接が始まる。
毎年申し上げているが、内田ゼミのゼミ生選抜基準は「まわりの友だちから『あなた変よ』と言われている人」である。
勘違いしてもらっては困るが、これは「変人」という意味ではない。
ウチダは(みなさん同様に)「ハードコアな変人」(電波系の方とか)にはあまりお近づきになりたくない。
別にそういうひとの人格について差別的であるとか、そういうことではない。
ただ、ゼミというのは「瞬時に場を読む」高度のコミュニケーション能力が要求される特殊な空間であるから、そういう方にはあまり向かないのである。
「まわりの友だちから『あなた変よ』と言われている人」というのはすでにコミュニケーション能力について、重要ないくつかの条件をクリアーしている。

(1)人格についてコメントしてくれるともだちがいる
(2)自分にとって、あまり耳障りのよくないメッセージでも受信している

この二点については、みなさんもただちに同意してくださることであろう。
しかし、もっと大事なことがある。
「まわりの友だちから『あなた変よ』と言われている人」は、自分についての自己診断を、「他者からのメッセージ」として聴いている、ということである。
そして、これが「できる」ということが、人間のコミュニケーション能力として、実はいちばん本質的なことなのである。
カフカは「世界と君が対立した場合には、世界に加担せよ」と書いた(細かい言葉は忘れたけど)。
「世界」を「他者」と書き換えると、これはそのままラカンのことばになる。
ラカンは『エクリ』の序文にこう書いている。

「文は人なり。私たちはこの格言に同意する。ただし、少し言葉を追加するという条件付きで。
『文はその宛先の人なり』(Le style c’est l’homme à qui l’on s’adresse)。
この格言なら私たちが提起してきたあの原則にも当てはまるはずである。
私たちはこう述べてきた。言語において、私たちのメッセージは〈他者〉から私たち宛てに到来する。差出人と受取人が入れ替わって。」

ラカンの言うとおり、「あなた変よ」という「他者からのメッセージ」は、実は、「私」が自分に宛てて発信したメッセージを逆向きに受信したものなのである。
人間的コミュニケーションというのはそのように構造化されている。
今さら「そんなの変」とか言っても始まらない。
これは別に人間が自閉的であるとか妄想的であるとかいうことではない。
逆である。
フランス語の se dire(「自分に向かって語る」)とは、「思考する」という意味である。
「思考する」というのは、要するに「自分がいったん外部に向けて発信したメッセージを外部から到来したメッセージとして聴く」ということなのである。
人間は自分に向かって言葉を語りかけ、それを聴き取るという「時間差」を擬制することなしには思考することができない。
そのとき、「私」が聴いている「私自分の向かって語りかけてくる言葉」の語り手を、便宜上「他者」(厳密には「〈私〉と名乗る他者」)と呼ぶのである。
どうして、そんな手間暇をかけないと人間は思考できないのか、私にもその理由はよくわからない。
一つだけわかっていることは、「人間は自分が必要としているものを他者から与えられるという仕方でしか手に入れることができない」ということを知ったことによって、人間は人間になったということである。
これはもちろん私の創見ではなく、レヴィ=ストロースの教えである。
私が何ものであるかを教える言葉を私は他者から告げられる。
仮に「私が何ものであるか」を私が熟知し、それを深く確信している場合でさえ、私はそれが「他者から告知される」ことを必要とするのである。
というわけで「ともだちから『あなた変よ』と言われている人」は「人間は他者を経由してしか、自分自身のことばを聴くことができない」ということを(それとは知らずに)すでに知っている点において、分析的には「人間」とみなしてよろしいのである。
ウチダゼミのゼミ生採択基準は要するに「人間であること」だったのである。
知らなかったでしょ?(私もいま自分の書いたものを読んで知りました)。
その「人間」のみなさんがぞろぞろと面接会場であるところの研究室においでになる。
さすがに、この「スフィンクスの謎」を解いて登場されたわけだから、みなさん相貌に知的な輝きがあふれている。話もたいへん面白い。つい時間を忘れて話し込んでしまう。
できることなら、面接に来たみなさん全員をゼミに受け容れたいのであるが、定員というものがあって、そうもゆかない。悩ましいところである。
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