憑きものの功徳

2004-11-07 dimanche

ネットでbk1のランキングを調べたら、人文・社会・ノンフィクション部門のランキングで、『他者と死者』が1位になっていた。
これはびっくり。
『死と身体』は8位。
いままでいろいろな本を出してきたが、1位というのははじめてのことである。
いったいこんな暗いタイトルの本を誰が買うのであろうか?
という深甚な疑問に逢着して、あらためて書棚から当該書物を取り出し、第三者の平明なマナザシで読み始めたら、おもしろくてやめられなくなり、午前二時までかかって、とうとう最後まで読んでしまった。
読了して、深いため息をつく。
なんて面白い本なんだろう!
まことにお気楽なことである。
だが、本人が読んでもおもしろいというのは、悪いことではない。
それは、その本に書かれていることが本人にもよく分っていないということだからである。
書いているときに「魔が差した」のである。
それをダイモニオンと呼ぼうとミューズと呼ぼうと精霊と呼ぼうと「うなぎ」と呼ぼうと、そういうものが到来しないと、「書いた本人が読んでも面白い本」は書けない。
しかるに、現今の作文教育にしても文芸批評にしても、「どうやって〈憑きもの〉をエクリチュールの場に招来するか」という方向での実践や理論が粛々と深化されているようには思われない。
実作者たちは、経験的に「イタコ」状態になる仕方を知っており、それぞれの儀式に則って執筆されていることとは思うけれど、その消息についての精密な批評のあることを私は知らない。
目に入る文芸批評を読む限りでは、批評家たちは、書き手たちがそのエクリチュールをすべて統御しており、作品の破綻も手柄もすべて書き手の責に帰しうるものだという前提を採用している。
でも、ほんとうにそうなのだろうか。
「どうしてこの人はこんなことを書いてしまったのか?」という問いを、作家に「〈何が〉憑いたのか?」という形式で探求する批評があればぜったい買うけど。

京大で来年度も集中講義をやることになった。
今年は夏にやって真夏の京都の暑さに閉口したので、来年度は真冬にやることにした(おそらく真冬の京都の寒さに閉口することになるのであろう)。
四日も五日もしゃべり続けるのは疲れるので、映画論。
これだと映画を見ている間はしゃべらずに済むから楽ちんである。
そのシラバスを書いてくださいというご依頼が杉本先生から到来した。
一年以上先の集中講義のときに自分が何を考えているのかなどということは予測の埒外であるので、さらさらと思いつきを書いて送信する。

題目:
「ハリウッド映画の欲望記号論」
解説:
ハリウッド映画はアメリカ民衆の無意識的欲望をリリースする装置であるとずっと思っていたが、最近どうもそうではないらしいような気がしてきた。というのは、アメリカの一般国民は映画なんか見ないからである。ハリウッドのフィルムメイカーたちは共和党とFBIとアメフトとチアガールとカントリーが大嫌いで、世界に向けて『アメリカって、ひどい国ですよね』というメッセージをひたすら発信していたのである。ハリウッド映画は岸田秀風に言えば「アメリカの外的自己」だったのだ・・・という仮説を検証してみたい。
テキスト・参考文献:
町山智浩『アメリカ横断TVガイド』『〈映画の見方〉がわかる本』『底抜け合衆国』、町山智浩+柳下毅一郎『映画欠席裁判』と内田樹『映画の構造分析』はできるだけ読まずに来てください(本と内容がかぶりますから)。

こういうシラバスを読んで、むらむらと履修したくなるのはいったいどういうタイプの学生であろうか。
なんとなく、すごく態度の悪い学生たちが鼻から煙を吹き出しながらぞろぞろ集まりそうな気がしてきた。
うう、自業自得とはいいながら。
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