面接試験が早く終わったので道場に駆けつける

2004-11-06 samedi

推薦入試。いよいよ入試シーズンである。
毎年のことであるが、今年度の出願者がどれくらい確保できるのか、大学関係者はどこもはらはらしている。
昨年度の資料を見ると、「前年比出願者数25%」などという大学もあった。25%減ではなくて、75%減である。
こういう大学に今年受験生は集まるのであろうか。
ひとごとながら、心配である。
数値を公開しているのは、まだ潔い方で、情報開示しない(できない)大学もかなりある。
大学淘汰は大学関係者の予測を超えた速度で進行しており、そのことの意味を理解できている大学人は今でも決して多くない。
私はどちらかというと楽観的な人間であるが、それでもつねに職を失った場合の準備はしている。
借金しないのも、大学教師以外の仕事でも食えるような職業訓練を日々怠らないのも、賃貸マンションに暮らしているのも、かさばるものをコレクションしないのも、定収を失い路頭に迷った場合に、生活水準をただちに下方修正できるための備えである。
そういう備えをしておくと、大学が潰れたときに困らないからではない(そんなことになったら、私だってすごく困る)。
そうではなくて、そういう備えをしておく方が、パースペクティヴが広く取れるからである。
取りうるオプションを多く取りそろえておく方が、そうでない場合よりも局面の判断において制約が少ない。
「うちの大学は絶対に潰れない」と思い込んでいる人間よりも「うちの大学は潰れるかも知れない」と思っている人間の方が、大学の生き残り戦略を立てるときに適切なソリューションを見いだす確率が高い。
私はそう思っている。
ビジネスの場合と同じである。
コクドがいま危機的状況になっているが、西武グループが破綻する可能性についてきちんとした予測と適切な対応について検討してきた内部に人間がどれくらいいただろうか。
たぶんほとんどいなかっただろう。
「うちが潰れるはずがない」と思っているうちに山一も長銀も雪印も三菱自動車もダイエーも西武も崖っぷちに立たされた。
そのような「ありえない」予測と対応戦略を検討するようなセクションをビルトインしている組織だけが「ありえない」事態を回避することができる。
そんなことはビジネスでとうに実証済みである。
組織の健全というのは、組織の「破綻の徴候」を他人に指摘されるより先に発見するセクションが活発に機能している限りにおいて担保される。
本学にはすでにいくつかの組織的な「破綻の徴候」が検出されている。
しかし、私のような人間がHPで満天下に「破綻の徴候」が検出されていることを情報開示できている間は、組織はまだ健全である。
組織内の人間が自分の属する組織の問題点について語るのを止めたら、それが「末期」が来たことの症状である。
その上で、今年は「なんとかなりそう」というのが私の楽観的展望である。
大学の内部に、「新しいこと」をいろいろやりたいという動きが見えるからである。
「ほかでやっていること」をうちもやろうというキャッチアップ的な発想ではなく(それはそのまま「ほかではやってないから、うちもやることないです」という退嬰的な発想に転化する)「ほかではこんなことやってないから、うちで一つやりませんか」という冒険的企図が語られる間は組織は健全である。
そういう「健全」と「退嬰」は、数値化することはできないけれど、ある種の「オーラ」として場を領するものであり、社会はそのような「オーラ」を確実に感知する。
「笑い声の絶えない場」に人は惹きつけられる。
どれほど懸命な組織再建努力がなされようと、それが眉間に縦皺を寄せた人々の不安と不満に駆動されてなされている限り、努力は報われない。
人々は不安と不満が渦巻くような場所には足を踏み入れようとは望まないからである。
組織は必ず破綻する。
いかなる組織もいつかは必ず破綻する。
だから、それは少しも恥ずかしいことではないし、隠蔽すべきことでもない。
重要なのは、その破綻を奇貨として、さまざまな冒険的企図が試みられているかどうかということである。

面接試験のあと、走って岡田山ロッジへ。
合気道のお稽古にわさわさと人が集まっている。
陽気な学生やお医者さんやSEや新聞記者や証券会社のOLや宗教学者や思索的な中学生が道場せましとお稽古をしている。
この方たちは別に実利的なスキルを身につけるためにここに来ているわけではない。
私には、そのようなものをご教授できるような能力はない。
私ができるのは、「私たちが身につけようといくら望んでも、決して果たし得ないものがある」ということを告知することだけである。
私はその場にいわば「トリックスター」としてかかわっている。
「その場」と「そこには顕現することのない私たちの欲望の焦点」(多田先生のことね)をリンクする役割を私はおそらく果たしている。
私が「トリックスター」として機能できるのは、私がたぶんその場にいる誰よりも強く多田先生の不在を「欠如」として痛感しているからである。
何かがそこには決定的に欠如している。
そのことを告げるのが私の仕事である。
人々がそこに集まるのは、そこに「何かがある」からではなく、「そこには何かが欠けている」ということを、そこに来ると切実に感知できるからである。
道場というのはその欠如を欲望する仕方を習うための場である。
その点で学校と道場は本質的に同じものなのである。
当たり前なんだけど。
ゼミの今年の卒業生の多田浩子くんが新しい「店子」として長屋に入居されました。
長屋の「表札」は「浩子のだからどうだっていうのよ日記」。
多々文句があるのはわかりますが、「表札」命名権は「大家」の特権ですので、ひとつご海容を。
長屋の皆さんもどうぞよろしくお引き回しのほどを。
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