節度と半襟

2004-10-27 mercredi

大学に着いたら、ウッキーが学会誌への投稿論文の草稿へのコメントを求めてきた。
三日ほど前にメールで来たのだが、赤ペンで添削しているうちに直しようがなくなって、そのまま放置していたのである。
「ダメだね、あれでは」
と冷たく言い捨ててすたすたと研究室に行こうとすると、「そんなー」と泣き顔になる。
しかたがないので、研究室に呼び寄せて、長説教。
あのね、キミは学術論文のフォーマットというものがわかっていない。
「モノグラフ」というのは「論点は一つ」と決まっている。
一つの論点を選び、それについての仮説を提示し、それを論証してみせる。
ただ、それだけのことである。
いったい何が論点なのか、それが明示されなければ論文ははじまらない。
しかるにキミの論文は何を論証するのだがよくわからない。
論点は手塚治虫のヒューマニズム論なのか、手塚のジェンダー・ブラインドネスなのか、『ブラックジャック』作品論なのか、「登場人物=記号」論批判なのか…
私にもわからない。
わずか20枚ほどの論文では、それらすべてを論じることはできない。
なぜ、論点を一つに絞るという「節度」が保てないのか。
ある種の知的な学生さんたちの書き物の特徴は、この「節度のなさ」である。
論点ひとつに絞るというのは知的な「節度」を持つということである。
どれだけ多くの参考資料を渉猟したとしても、論点から外れることについては触れない。
「あれも読みました、これも調べました…」と手柄顔で列挙していると、結局何が論点なのかがわからなくなってしまう。
あまり知られていないことだから、この機会に申し上げておくが、「よくできる」学生さんの書く論文が陥る最大の欠点は「証明過剰」ということである。
その仮説が「当てはまる事例には当てはまる」というところで踏みとどまれずに、「すべての事例に当てはまる」という方向へ前のめりになってしまうのである。
残念ながら、「すべての事例に当てはまる」ような仮説というのは、ほとんどの場合「雨が降る日は天気が悪い」というような無意味な同語反復にすぎない。
節度を失った仮説は必ず凡庸化する。
そして誰でも知っており、誰でも同意する仮説に学術的価値を認める人はいないのである。
だから、凡庸でありたくないと望むなら、「限定的事例にのみ妥当する奇妙な仮説」にあえて踏みとどまらなければならない。
この間、春日武彦先生に教えて頂いたのだが、ある種の統合失調症患者は「世界のすべての事象を説明できる単一の方程式を発見する」ことへの固執を示す。
宇宙の真理のすべてが「ワンフレーズ」に収まることを彼らは切望するのである。
言い換えると、「世界のすべての事象を説明できる単一の方程式」への欲望を自制できることが「健常な知性」の条件だということになる。
モノグラフが成立するか否かは、ひとえにこの「自制」にかかっている。

さっちゃんからゼミの卒業生たちで遊びに行きたいけれど、空いてる土曜日はありますかというお問い合わせメールが来たので、ダイヤリーをめくってみたら、なんと年内空いている土曜日はクリスマスの夜しかなかった。
あとはすべてスケジュール詰め詰めである。
合気道の土曜の稽古も、よく見たら年内は1回しか行けない。
「週末がない」というのはけっこうきびしい。
水曜がオフなので、その一日でなんとか夏物冬物整理とか散髪とか窓ふきとか風呂掃除の時間はぎりぎり確保できるけれど、仕事の打ち合わせが入ったりすると、ルーティンの家事以上にはもう手が回らない。
そんなふうにしていると、ゆっくり澱がたまるように、家の中の秩序が不可避的に崩壊してゆく。
それが、すごくつらい。
一人暮らしの難点は、私が掃除しない限り、部屋がきれいにならないということである。
月一の「瓶のゴミ出し」の日に続けて二度東京に行っていたので、台所には二ヶ月分の酒瓶が並んでいる。
秩序を失いつつある家の中を見回すと、「罪悪感」に似たものを感じてしまう。
誤解されている方が多いが、私は本質的に「主婦」の人である。
家をきれいに整えて、誰かを歓待する用意をしているときが、いちばん幸せである。
寒い夕方、空腹をかかえてとぼとぼと貧しい屋根裏部屋に帰ると、部屋の中では暖炉があかあかと燃え、きれいな家具が並んでいて、美味しいご飯がテーブルに並んでいる…というシーンが『小公女』の中ではいちばん好きだった。
もちろん、「小公女」の立場になりたかったのではなく、屋根越しに入り込んできて、汚い屋根裏部屋を小さな宮殿みたいにぴかぴかにしてしまうインド人の従僕の仕事はどれほど愉快だろうと思ったからである。
私は「サービスされること」よりも「サービスすること」の方がずっと好きだ。
でも、一人暮らしだから、この欲求はもっぱら「自分で自分にサービスする」ことによって解消する他ない。
「週末がない」とか「仕事が立て込んでいる」とかいうことになると、この「自分で自分にサービスする」ための時間が取れなくなってしまうのがつらいのである。
今日は午後に少し時間があるので、日曜の会のための着物のお手入れと半襟の縫いつけ作業をする。
針仕事というのは時間の経つのを忘れるほど愉しいことなんだけど、意見の合う人は同性にはあまりいない。
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