めちゃんこかわいいチャン・ツイイーちゃん

2004-10-25 lundi

気持ちの良い秋晴れの一日。
こういう日は、空を見上げながら川縁を歩いたり、本屋に寄ったり、秋物の服を買ったり、街角でコーヒーを飲んだり、映画館にふらりと入ったり、ビーフカツレツを食べたり、ワインバーで美味しいワインを飲んだりして、都会生活者的な時間のつぶし方をしたらずいぶん気分がよさそうだ。
もちろん私の人生にそのような悦楽的時間は存在しない。
なにしろゲラが四つ机の上に鎮座しているのである。これらを処分しない限り「私の時間」というものは到来しない。
ベランダ越しに秋の青空をうらめしげに眺めながら、終日「赤ペン先生」。
まず『現代思想のパフォーマンス』の三校。2時間かけて20箇所くらい誤植がみつかる。これはメールで送信。
『ヒッチコック/ラカン』は担当箇所が少ないので、2時間ほどで終わる。そのままポストに投函。
『ポーラン/ブランショ』はテキスト・クリティックをやらないといけないので、関係ないところだけチェックして、あとはペンディング。
『インターネット持仏堂』は自分の書いたところの校正だけでなく、あちこちに「注」を書き足すようにというご指示がある。とても二日三日では片づきそうもない。とりあえず本文だけ校正。
ふと顔をあげるとすでにとっぷり日は暮れている。
結局一日机にしがみついて、仕事は半分しか終わらなかった。やれやれ。

階下のコープに買い出しに行って、今夜は「おでん」と「炊き込みご飯」に決める。
ご飯を仕込んでから、お風呂に入って、湯上がりに冷たい白ワインを啜ると、少し人間らしい気分になる。
寝ころんで日本シリーズ第六戦と『新撰組!』をザッピング。
江口洋介の坂本龍馬が暗殺される場面。
龍馬は小銃が不発で、床の間の刀掛けにある刀を鞘ごと頭上にかざして斬撃をよけようとしたが、ざっくり頭蓋を割られた。殺害者は不明。三谷脚本では見廻組佐々木只三郎という定説をとっている(佐々木は清河八郎の暗殺者である。清河は私の高祖父、内田柳松の「上司」だった人である)。
龍馬がこのとき死ななかったら、そのあとの日本の歴史はずいぶん変わっていただろうと想像する。
みんなそう思うんだろうけど。
彼が慶応三年に京都で暗殺されなかったら、戊辰戦争はもっと限定的なものだったかもしれないし、維新後に薩長藩閥というものがあれほどの政治力を持つことはなかったかもしれないし、西南戦争もなかったかもしれないし、明治の立憲君主政もずいぶん感じの違うものになってかもしれない。
「坂本龍馬が生きていた場合の明治維新」をシミュレートしたSFを書いてくれる人がいないかしら。あれば絶対読むのにね。

ごそごそと『裏ビデオ』を撮りだして『2046』を見る。
映画評のために映画を見る、というのはあまり愉しいものではない。
はじめから映画評のために見に行った映画は『踊る大捜査線2』しかないけれど、見落としとか事実誤認があるといけないので、どうでもいい場面までけっこうまじめに見てしまったので、あまりリラックスできなかった(別にそんなにまじめに見るような映画じゃなかったんだけどね)。
そのせいか、『キネマ旬報』で酷評してしまった。
だらだら見てたら「なんだ、けっこうおもしろいじゃない」ということになったかもしれないのに。すまないことをした。
その轍を踏まないように『2046』裏ビデオをワインを片手にだらだらと見る。
映画の中でトニー・レオンがくわえ煙草でお酒ばかり呑んでいるので、こちらもトニー・レオンといっしょにくわえ煙草でお酒ばかり飲む。
チャン・ツイイーちゃんが、またまためちゃんこかわいい。
私だって若いときにこんな女の子と会ったらぜったい宿命的な恋をしちゃいそうである(そして死ぬほど不幸な目に遭うのだ)。
でも「『あのとき、彼女を引き止めておけば、別の人生がオレにはあったかも知れない…』というような種類の悔恨を男が生涯抱いていけるような仕方で男を不幸にする女」というのは定義上「よい女」である。
「よい女」は必ず男を悔恨のうちに取り残す。
出会った瞬間に、その人がある種の「満たされなさ」を私のうちに残して去って行くだろうということが直感できる女、それが「よい女」なのである。
というわけで、いまウチダがいちばん注目の旬の女優さんはチャン・ツイイーちゃんと、ヒラリー・スワンクちゃんなのである(ヒラリーちゃんは『ボーイズ・ドント・クライ』のあと作品に恵まれないが…)
残念ながら、『2046』は残り20分くらいのところでビデオテープが「ぷっち」と切れて、ラストがどうなるのかわからぬまま終わってしまった。
ラストがどうなるかわからぬ映画について映画評を書いてよいものかどうか、五分ほど悩んだあとに、「そういうことも、あるかもしれない」という結論に達する。
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