レヴィナスの末裔たち

2004-10-23 samedi

基礎ゼミは「葬儀」の話。
先週は「殺人」の話、その前は「負け犬」の話。
何でも好きなテーマで研究発表をしていいよと言ったら、学生さんたちが持ってくるテーマのヘビーなこと。
葬儀というのはこのところの私の念頭を去らぬ研究テーマである。
さっそく葬儀の人類学的意義からはじめて、あらゆる葬礼が「存在者」と「存在しないもの」の中間に「死者」というカテゴリーを創出することをめざしているという『他者と死者』、『死と身体』での持説を展開する。
「死者はいるけど、いない」というわかりにくいテーゼに学生たちは深く頷いてくれる。
このような重いテーマが18歳の少女たちにとって「切実」なものと感じられているということのうちにある種の「地殻変動」の徴候を私は感知するのである。
文春のタナカくんが『死と身体』の「死者論」は、もしかすると片山恭一の『世界の中心で、愛をさけぶ』と同じ話をしているのではないかという鋭いご指摘メールをくれる。
洛陽の紙価を高めたこのベストセラーを私は未読なのであるが、『文學界』に片山さんが寄せた自作自注によれば、この小説のアイディアの源流にはレヴィナスがあるそうである。
だとすれば、『死と身体』と『セカチュー』が「レヴィナスの末裔」ということで「同系の物語」というのも蓋然性の高い話である。
さっそく読んでみることにしよう。

午後は会議がふたつ。
二つめの会議が終わったところで昼休みにあった執行部選挙の結果を松田先生が教えてくれる。
松田先生は入試部長再任ということで、がっくり肩を落としておられる(激務なのである)。
私は教務部長に選ばれたそうである。
何かに「当たる」のではないかという懸念はあったのであるが、やはり…
二人並んでがっくり肩を落として、とぼとぼと岡田山を下る。
しかし、こういう「割り前」は年の順に引き受けなければならないものである。
私が若い頃は、年配の先生方が管理運営に携わって、ご自身の研究時間を削り、プライヴェートを犠牲にして、私たち若い教員が研究教育活動に専念できるように大学を支えていてくれていた。
自分もその年回りになったら「ご恩」を返さなければならない。
世の中、そういうものである。
私は学者なんだから研究だけする、学内の「雑務」なんぞ御免だね、というようなことを放言する教員はまだ少なくない。
けれども、その人が「自分のもの」だと思っている研究時間は、他の教員が自分の研究時間を削って確保してくれているのである。

重い足をひきずりながら、梅田に出て、朝日カルチャーセンター秋季連続講義の第一回に出かける。
お題は「身体・記憶・物語」。
半年ぶりの朝カルである。
例によって、ぶっつけ本番。
コミュニケーションを起動するのは「誤解」である、という昨日の医学会での講演のマクラをそのままひきずって、「正しい思いなしとは知と無知の中間にあるものである」という『饗宴』の中のディオティマのことばを手がかりに、「無 - 知」(non-savoir)のダイナミズムについて思いつきをしゃべる。
「ものを知らないからこそ欲望は起動する」「ひとの話を誤解することこそコミュニケーションの本質である」という説を丁寧にご説明する。
「何の話かわからない話をすることの形而上学的意味」についてお話しているのであるが、どういうわけか私が話すと話がどんどんわかりやすくなってしまうのが難点といえば難点なのである。
またまた医学書院の白石さん、本願寺の藤本さん、釈先生、ウッキー、街レヴィの小林さん、三軸の福原さん、聴講生の川崎さんら、おなじみの皆さんが陣取っている。
当然、講演あとは、いつもの通り「プチ打ち上げ」。
藤本さんがゲラの束を抱えてきて、『いきなりはじめる浄土真宗』の校正打ち合わせ。
年明け早々にちくまの新書よりも早く出したいと意気込んでいるけれど、大丈夫かしら。
ゲラを鞄にしまい込んで、とりあえず生ビールをくいくいと呑んで月曜日から続いた「死のロード」の無事終了を祝う。
やれやれ。
来週は学祭、裁判のための学習会と下川正謡会の練習会といくつかイベントがあるが、どれも「仕事」ではないのでだいぶ気楽である。
とりあえず生きて霜月は迎えられそうだ。
--------