法科大学院と「もうひとつの日本文学」

2004-10-17 dimanche

朝刊を開いたら、「法科大学院志願が激減」という見出しが一面トップだった。
あら、やっぱり。
全国で68もの法科大学院はどう考えても法曹市場の需要に対応していない。
遠からずその過半は市場から撤退することを余儀なくされることは自明であると私は考えていた。
しかし、「遠からずその過半が市場から撤退することを余儀なくされること」が自明であるにもかかわらず、日本中の法学部をもつ大学のほとんどがかなりの設備投資をし、法律専門家のリクルートに巨額の人件費投資を行った。
理不尽なようだが、主観的な理由づけはたいへん簡単である。
「ほかがやっているのに、うちだけやらないわけにはゆかない」からである。
このわが国固有の「村的」メンタリティを日本の法律関係者もまた豊かに共有されていたということである。
その結果、全国に68校も法科大学院が開校した。
そんなに作ったら、どうなるか。誰にだって結果は見えている。
誰が考えたって、「法科大学院卒業生の7-8割が司法試験に合格する」というような気楽な事態が到来するはずがない。
法科大学院卒業生全体で司法試験合格者はせいぜい3割と予測されている。
低いところでは合格率数パーセントというところも出るだろう。そんな大学院には翌年度出願する者がいるはずがないから、そのまま立ち腐れする他ない。
法曹にはさまざまな知的資質が期待されているが、そのうちの一つは「社会の変化の趨勢を見通す力」である。
めまぐるしく変化する社会情勢に適切に法条文を解釈適用するためには、歴史的趨勢を見通す能力は不可欠である。
この程度に自明な未来予測に失敗したという事実からして、日本の法科大学院設立者たちに、はたして法曹を育成するだけの知的資質が十分に備わっていたのかどうか、私はいささか危ぶむのである。
何度も申し上げていることだが、「少数の先駆的な人間だけしかやっていないときには生産的で効率的な事業」でも、そこにわさわさと人が集まってしまうと、同程度の生産性や利益は期待できない。
当たり前のことである。
ゴールドラッシュで一攫千金を求める人々がカリフォルニアに殺到したとき、金はすでに掘り尽くされていた。
そういうものである。
多少とも理知的なビジネスマンは「ほかがやっているから」ではなく、「ほかがやっていないから」という理由で新しいビジネスモデルを開拓するのである。
同じように、多少とも理知的な大学人は、「ほかがやっているから」ではなく、「ほかがやっていないから」という理由で新しい教学プログラムを考案する。
そういう人がなかなか多数派になりえないという点で、私は日本の大学の未来についてもあまり楽観的になることができないのである。

新聞を読み終えたので、秋晴れの空の下、甲南大学までバイクででかける。
日本アメリカ文学会全国大会で高橋源一郎さんが「翻訳と文学」と題した特別講演を行うからである。
講演前に高橋さんにご挨拶をする。
昨晩ご令息の夜泣きで一睡もしていないそうで、ずいぶん眠そうである。
最初は、けっこうつらそうだったけれど、話が進んで、「百年の孤独」と坪内逍遙の話にかかるあたりからドライブがかかってきて、聴いている私の頭もだんだん発熱してくる。
高橋さんによれば、近代文学はどうやら終焉を迎えたようだけれど、それは「物語を作り出す」人間の切実なる欲求が消えたことを意味するわけではない。
高橋さんは、坪内逍遙や『虞美人草』の夏目漱石から分岐した(かもしれない)「もうひとつの近代日本文学の可能性」について言及していた。
それは「自我」や「内面」や「青春」や「革命」や「セックス」が主題として選択されることが不可避であるような、制度としての近代文学とは「違う文学」である。
いったい、近代文学には現にあったようになる他にどんな「進化」のプロセスがありえたのか、それを想像しているうちにどきどきしてくる。
明日は東京の学士会館で竹信悦夫くんの「送る会」がある。
高橋さんは灘校時代の友人として、私は大学時代の友人として、それぞれ弔辞を読むことになっている。
高橋さん、また明日。
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