賢者は良賈に似たり

2004-10-16 samedi

『文學界』に連載を頼まれたので、いいですよと申し上げたら、三月ほど前から『文學界』が送られてくる。
自分で買ったことのない本なので、ぱらぱらとめくってみると、いろいろとびっくりすることが書いてある。
今月の『文學界』の特集は「討議:絶えざる移動としての批評」というもので、柄谷行人、浅田彰、大澤真幸、岡崎乾二郎というみなさんが批評についてハイブラウなお話をされている。
座談はこんなこんな感じ進む。

「柄谷:90年代に入って定期的に海外で教えるようになってから、僕は自分の仕事が変わってきたと思う。この間自分の生きている場所が半ば日本の外にあったわけです。日本にいて西洋からの思想を受け取ってどうのこうのと議論しているのではなく、僕にとってはそのような思想家たち自身がライバルであった。彼らを倒してやろうと思っていた。それは誰も日本語なら読まないからというので偉そうにやっつけるというとは違いますよ(笑)。向こうも僕のことを知っているのだから。ここ十何年間そういう感じでやってきたのですが、ここ数年間何か決定的に変わったような気がするのです。(…)
浅田:柄谷さんがイェール大学に行った頃はポール・ド・マンがいたしイェール学派もいた。フランスに行けばデリダのみならずドゥルーズもフーコーもいた。ところがド・マンやサイードといった人たちも亡くなり、アメリカに行っても本当に話の通じる相手をみつけるのがむずかしくなった。(…)
大澤:ある時までは、世界の方でもしっかりとしたスタンダードがあって、それを日本に輸入してうまくゆくという相互的な関係があったんでしょうね。
柄谷:だから僕は一人になっちゃったと思うんです。自分と比べる人やライバルと思う人が外国でもいなくなってしまった。考えてみたら、僕の本を読んでほしかった人たちがもういない(笑)。」

一読、みなさんも驚かれたであろうが、私もびっくりした。
では、いったい柄谷行人はこれから出す本を誰に読んでもらう積もりなのであろうか訝しく思ったからである。
おそらく、「僕の本を読んでほしかった人」ではなくて、「別に読んでほしくもないが、読むべきである人」というのが彼の今後の読者として想定されているのであろう。
現に、柄谷は自著について次のような自注を加えている。

「英語版の『隠喩としての建築』は英米で建築に携わる人たちのあいだでは一種の必読書になっています。建築の分野では技術的で専門的な本が多いけれど、中にはもうちょっと哲学的に建築を考えたい人がいるでしょう。そういうものとしてはたぶん僕の本が一番ふさわしいと思いますね。」

なるほど。
ここでは書き手と読み手の関係は完全に非対称的なものとして前提されている。
書き手は「(どうせ読んでもわからないだろうが)読ませてやる」立場で、読み手は「(どうせ読んでもわからないかもしれませんが)読ませていただく」立場なのである。
はた、と私は膝を打った。
いや、これはたいしたものだ。
こういう非対称性は民主的でないとか、ディセントでない、と思って憤慨される方もおられるかもしれないが、それは皮相なご理解というものである。
実は、これはたいへん正統的なセールス戦略なのである。
私はかつて『NAM原理』という柄谷の著書を評して、その卓越した経営者能力を高く評価した一文を草したことがある。今を去ること4年前の話である。
お読みになった方もあるかと思うが、当時の日記をそのまま採録する。

「教授会のあいまに柄谷行人『NAM原理』を読む。
うーーーーむ。何だろうねえ、これは。
誰か教えて下さい。
私には意味がよく分からない。
読んでないひとのために簡単にいうと、これは21世紀の「共産党宣言」である。資本主義と国家制度を超克する組織論が書いてある。
そのキーコンセプトは地域通貨と生協とインターネットとくじ引きである、というのである。
私が「うーーーむ」と唸るのも分かるでしょ。
いや、これが例えば「COOPの未来」とかいう題名で愛宕山ミニコープのレジ脇においてあるパンフであれば、私も「おお、けっこう神戸のコープさんは過激だなあ」と感心して、「ねえ、ねえ、すごいよ神戸のコープは地域通貨を出して、共産主義革命をするみたいだよ」と大学の同僚たちに触れ回ることであろう。
しかし、柄谷行人が苦節40年マルクス主義思想を省察した帰結として、「賛助会員一口1000円以上」の「組織」つくりを提言とする、ということの意味が私にはいまひとつよく分からない。
柄谷がマルクスを研究して得た「未来像」は「要するにマルクスは国家によって協同組合を育成するのではなく、協同組合のアソシエーションが国家にとって代わるべきだといっているのである。そのとき、資本と国家は揚棄されるだろう。そして、そのような原理的考察以外は、彼は未来について何も語っていない。」(p.59)ということである。
協同組合とは、「資本制下で労働力を売らない」、「資本制生産物を買わない」人たちが、それでも生活できるための「受け皿」である、と柄谷は説明している。
「労働者=消費者にとって、『働かないこと』と『売らない』ことを可能にするためには、同時に、働いたり買うことができる受け皿がなければならない。それこそ、生産-消費協働組合に他ならない。」(p.36)
このような組織が全世界的なネットワークを形成したとき、資本主義と国家は揚棄されるであろう、と柄谷は予言する。そしてこれが現在可能な唯一の運動形態であり、かつ「現状を止揚する現実の運動を共産主義と名づけている」とマルクスが定義している以上、これこそが「共産主義」なのである。
困ってしまったなあ。
柄谷の言っていることは正しい。
正しいんだけれど、変である。(「正しいが変」ということってあるのだ。)
私には少なくとも二つ柄谷が言い落としていることがあると思う。
一つはこのような「原理的」な運動を唱道し、それに賛同している人間たちは、いまのころ全員が「資本制」と「国家」の受益者であり、それを「揚棄する」ことより、それがとりあえずしばらくは「順調に継続する」ことによって、より多く利益を得る、という逆説を生きている、ということである。
つまり、この「原理」という本が価格1200円で書籍流通の構造の中でベストセラーになり、運動に多くの学生市民が参加し、みんなが「ナムナム」と言い出し、「ナムにあらざれば知識人にあらず」的なムードが高まり、アソシエーショニストであることの「文化資本」が高騰し、「賛助会費」が(地域通貨じゃなくて、円で)NAM事務局の金庫を満たす、ということをとりあえず(不本意ながら)NAM運動は目指しているわけである。
つまり、NAM運動は、それが揚棄すべき資本制市場経済を「基盤」にして立ち上がるわけであり、そのシステムそのものが柄谷をはじめとするアソシエーショニストの諸君の消費生活を当面は支えて行くわけである。
しかし、そのような「ねじれ」はどこかで廃棄されねばならないだろう。
それは、いつ、どのような仕方でなされるのだろう?
「資本制生産物は買わない」ことを第一のスローガンに掲げる運動のファンドが(『原理』という)「資本制生産物」を資本制マーケットを流通させて、できるだけ多くの人に「買わせる」という形態で獲得されるほかないという矛盾はどの段階で「揚棄」されるのであろう?
おそらく、協同組合が柄谷たちの消費生活を支えるだけの構成員数を抱えたときに、すべての「ねじれ」は解消されるのであろう。
しかし、「資本制生産物」を買わないで、なお日々を楽しく暮らすだけの「消費生活」を基礎づけるためには、衣食住の確保だけではすまされない。
消費生活には、映画館や娯楽小説や音楽CDやゴルフ場や能楽堂や居酒屋やハンバーガーショップやヨットハーバーやゲーセンなどなど、私たちがそこで消費行動を行っているサービスが含まれる。それらの過半を協同組合が提供していなくては、資本制市場からの「離陸」は果たせない。
でもそのためにはいったい何人くらいの組合員が必要なのだろう?
100万人くらいだろうか?
それくらいいれば、資本制市場と独立したかたちで生産と消費をまかなうことはできるかもしれない。
しかし、そこに至るまでの過程で、この運動は市場経済のメカニズムと国家の管理ときちんと折り合っていかなくてはならない。
そして、もし「資本制市場経済」と「国家システム」の下で、すくすくとNAMが育っていくのだとしたら、そのとき私たちは深甚な疑問に逢着することになる。
だったらどうして資本主義と国家を揚棄する必要があるの?
だって、君たちまさしく資本主義と国家というシステムの中で、みごとに共産主義組織を作り上げることができたじゃない?
ここで私の頭は混乱する。
自分がやりたいことをやらせてくれないシステムだから、このシステムを揚棄する、というのなら話は分かる。
自分がやりたいことを少しも邪魔しない(どころかときどきアシストしてさえくれる)システムをあえて揚棄することの意味は何なのだろう?
NAMは資本主義を禁じるが、資本主義はNAMを禁じない。
どちらが「正しいシステムか」と問われたら、私は答に窮する。
どちらが「でたらめなシステムか」と問われたら、私は迷わず「資本主義」と答える。
そして、正直言うと、私は「でたらめなシステム」がけっこう好きなのである。
もう一つ柄谷が見落としているのは「欲望」である。
仮にNAMの運動が順調にすすんで、1000万人程度の構成員を擁する巨大な生産-消費協同組合ができたとする。この組織はどのような「商品」を生産、流通、消費させる予定なのだろう。
後期資本主義社会の市場について私たちが学んだことの一つは、私たちは「必要がある」からものを買うのではなく、「欲しいから」買う、ということである。
私たちの「欲しい」という気持をかきたてるのは、商品の「使用価値」でも「交換価値」でもない。
用語の解説をここでさせていただきますが、「使用価値」というのは、モノ自体が「何かの役に立つ」という場合の価値である。(亀の子だわしは「フライパンを洗う」のに役に立つ。)「交換価値」というのは、モノそれ自体の価値ではなく、需給関係によって生ずる価値である。(ゴムボートの使用価値(水に浮く)はどの市場においても同一であるが、「タイタニック号沈没間際」と「初秋の湘南海岸において」では交換価値が異なる。)
さて、資本制市場において私たちの欲望を喚起するのは商品の使用価値でも交換価値でもない。
それは商品の「象徴価値」である。
象徴価値をボードリヤールは「その商品がもつ社会的な差別化指標としての価値」と定義している。
分かり易く言い換えよう。
「ローレックス」と「スウオッチ」はどちらも計時能力という使用価値においてはほとんど優劣がない。しかし、一方は100万円、一方は9800円。「どちらが欲しい?」と尋ねれば、多くの人は「ローレックス」と答えるだろう。
どうして?
もちろんローレックスをはめていると、見た人が「わ、すげー」と驚くからである。
見た人の目に「興味と懐疑と畏怖」の表情が浮かぶからである。
ローレックスをはめている人は、このような高額の商品を彼に供与しうる「なんからの回路」(濡れ手で粟の金融商品とか「リッチなパパ」とかヤクザとか)にアクセスしているという事実がこの「興味と懐疑と畏怖」の感情を構成する。
それが「差別化」ということの内実である。
差別化とは、端的に言うと「ここから先はオレは行けるけど、あんたはダメ」と言うことである。
つまり、象徴価値をもつ商品とは、「それを通じて迂回的にしか表象されえないものの存在を暗示する商品」のことである。
「不可視のもの」を背後に蔵していることによってはじめてある商品は「象徴価値」を帯びるのである。
お分かりだろうか。
だから、ある社会において高い象徴価値を持つ商品とは、「不可視のもの」あるいは「外部」とのつながりを暗示する商品になるのである。
例えば、占領下の日本において象徴価値が高い商品は「キャデラック」や「ジッポ」や「レイバン」であった。それはその所有者がそれを誇示することによって「米軍」という「不可視の外部」とのコネクションを暗示することができたからである。
いま若者たちが例外的な欲望を示している対象は携帯電話である。すぐお分かりになるとおり、それはまさしく「見えない外部との連絡」の記号そのものである。つまり、携帯電話はいわば端的に象徴価値「だけ」で構成された商品なのである。
話を元に戻すと、人間がある限り(それがNAM社会であれ)、人々は必ず象徴価値を持つ商品を渇望する。
柄谷はNAMにはどのような秘密も、どのような権力も存在しない、と主張する。
NAM社会はその「外部」に「資本制市場」と「国家」を叩き出す。
だとすると、論理的に言うと、「NAM社会」においてもっとも高価な商品、その構成員が切望する商品は、「資本制市場と国家と秘密と権力へのアクセスを表象するモノ」だということになるだろう。つまり、「NAMの外部」と連絡を有することを記号的に表象するモノに人々は最高の価格をつけることになるだろう。
理性的な社会では「狂気」がもっとも欲望を昂進させる商品になる。「正しい社会」では「邪悪なもの」がもっとも欲望を昂進させる商品になる。
柄谷のような怜悧な理性がこのような単純な事実を見落とすはずはない。
柄谷が構想している未来社会において、柄谷は自分自身を「内部」と「外部」のインターフェイスに位置づけようとしている。彼は協同組合の運営という内部的な実務作業にはまったく関心を示さない。彼が興味を示しているのは、「資本制市場と国家」を「揚棄する」作業-つまり「邪悪なもの」とのインターフェイスだけである。
つまりこういうことだ。
柄谷は、いま資本制市場の「内部」において、「資本制を揚棄する」という本を書いて、彼自身が「外部」との回路であることを示してその象徴価値を高めることに成功した。そして、資本制市場と国家の「外部」である「来るべき共産主義社会」においては、資本制と国家の境界面で、その「センチネル」としてアソシエーショニストたちの欲望の焦点であり続けることを計画している。
つまり、柄谷の理想社会とは、柄谷自身がつねに「その社会においてもっとも欲望をそそる商品」であるような社会なのである。
おおお、なんと賢い人なのであろう。」(2000 年12月16日)

ということを四年前に書いてから、しばらく柄谷行人のことは忘れていたが、『文學界』のおかげで思い出した。
柄谷行人は依然としてアクマのように賢い。
四年前に書いたとおり、商品が欲望の焦点になるときの大きな理由のひとつは「その商品がどうしてこの価格で売られているのか、その理由がわからない」ということである。
四年前と同じ例を挙げて恐縮だが、100万円のローレックスの計時機能は1万円のスウォッチとそれほど変わらない。
では残り99万円の差額の積算根拠は何かというと、それが「分からない」のである。(四年前と話が違うじゃないかとお怒りになってはいけない。私だって、いろいろ考えるんだから)
実は、「どうしてローレックスはこんなに高いのか?」という問いに誰も答えることができないという事実がローレックスの商品性格を形成しているのである。
もし、ローレックスのムーブメントの精密さがこれこれで、使っている宝石の原価がこれこれで、制作に携わっている職人の月給がこれこれで、アフターケアがこれこれで、パブリシティの経費がこれこれで・・・と価格の費目明細が明らかになったら、どうなるであろう。
人々は必ずやこう思う。
「なるほど、これだけのコストがかかっているのか。だったら、100万円は少しも高くないな」
「少しも高くない時計」に誰が100万円を投じるであろう。
ローレックスが売れるのは、それが100万円相当の商品であることの理由が明らかであるからではなく、100万円相当の商品であることの理由が誰にも知られていないからである。
なぜ、その商品が欲望されるのか、その合理的理由を誰も言うことができないときに、その商品は欲望される。
「諸君は私の本を読まねばならない。なぜなら、私の本を諸君はなぜ読まなければならないのか、その理由を諸君は知らないが、私は知っているからである」
というのはセールス戦略としては「正解」である。
私はその点で「賢者は良賈に似ている」と申し上げたのである。
ところで、四年前にあれほど大騒ぎしたNAM運動はどうなったのかと思ったら、どうやら(当然ながら)あまりうまくゆかなくて、2003年に解散したんだそうである。
その失敗を柄谷はこんなふうに総括していた。

「まあ、僕は運動家じゃないのは初めからわかっているので、二、三年で誰か実践的なリーダーが出てきたら引っ込もうと思っていましたが、僕が悠然と引っ込めるような体制にはなりませんでした。NAMがうまくゆかなかった理由のひとつは、まずインターネットのメーリングリストに依存しすぎたことです。それは基本的に海外にいることが多い僕の都合から出てきたやり方で、それが失敗につながっていたと思う。本当にやるつもりだったら日本にずっといないといけないし、実際に人に会わないといけないでしょう。それをやらないで自分の場所に都合の良いように運動を起こしたために、結局そのことの弊害を僕自身が受けることになった。もうひとつは、運動に経験がある未知の人たちに会って組織すべきだったのに、僕の読者を集めちゃったわけね。インターネットでやればどうしてもそうなる。それで、柄谷ファンクラブみたいになってしまった(笑)」

これが「資本と国家を揚棄」することをめざした21世紀に可能な唯一の共産主義運動頓挫についての総括である。
敗因は「メーリングリスト」と「ファンクラブ」だそうである。
私は四年前に「この運動は柄谷を欲望の焦点にすることにいずれ帰着するだろう」と予想していたが、ご本人からもご承認頂いたことになる。この点ではたいへん満足を覚えている。
ただ、この中の「本当にやるつもりだったら」という一行はいささか気になった。
「本当にやるつもりだったら」という非現実仮定は、「本当にやるつもりはなかった」という場合にしか使われない。
「本当にやるつもりがなかった」運動を組織することによって柄谷が「本当は何をやりたかったのか」。
私にはうまく想像することができない。
繰り返し言うが、私は柄谷行人が例外的に怜悧な知性の持ち主であることを喜んで認める。けれども、それは柄谷行人の本を読んで、その説くところを信じている読者の知性を認めるということとは次元の違う話である。
--------