悪魔の洗脳教師

2004-10-06 mercredi

卒論中間発表会。
というものを後期第一週に行う。
卒論のおよそ半分の量(「全体の構成」と「研究史概観」と「序論」まで)をこの段階までに書き上げて頂く。
締め切りが1月中旬であるから、まだ3ヶ月の余裕がある。
大胆な軌道修正も今ならまだ間に合う。だから、こちらとしても「こんなんじゃダメです」という乱暴なコメントをつけることもできる。
今回は「書き直し」を命じなければならないような不出来なものはひとつもなかった。ほとんど書き上がっているものさえあった。
初稿ができていると、こちらも「あれを論じろ、これを調べろ」と好き放題な注文ができる。当然、論文の完成度も高くなる。
卒論の主題選択の経年変化を定点観測していると、「いまどきの若い女性」の思念をとらえているものが何か、その趨勢がよくわかる。
みなさん、2004年度の卒論テーマはいったい何に集中していると思います?
なんと、これが「共同体の再生」と「身体と霊性」なのである。
全体の80%がこのいずれかの(あるいは両方の)主題にリンクしている。
「共同体の再生」は家族論、結婚論、コミュニケーション論などのかたちをとって語られているが、核にあるのは「いかにして健全な親密圏の再生を果たすか?」という問いであり、彼女たちがそれに対して用意しようとしている答えのひとつは「伝統的な文化(とりわけ身体技法)の再評価」なのである。
「霊性論」は呪術、身体加工、葬送儀礼などの主題に分散しているが、ここでも身体がある種の超越的準位への回路として機能していることが論の鍵になっている。
「ウチダくんのゼミ生はやることがばらばらだね」とよく言われるが、こうやって総括するとばらばらどころか、まさに私の当面の関心領域とぴたりと重なり合っているではないか。
1年半も毎週私のヨタ話を聴かされているうちに、彼女たちもそれと気づかぬまま「洗脳」されていたのであろうか。

5時間かけた中間発表が終わり、そのまま芦屋に移動して打ち上げ宴会。
準備時間がないし、みんな腹ぺこなので、「すわったとたんに食べられる」鉄板焼きメニューでご機嫌を伺う。
餃子、ソーセージ、イカ、焼きそば、キャベツ、茄子、豚肉、牛肉などを順不同に鉄板に並べて、それを焼ける端から食べて、ビール、ワイン、酎ハイなどをぐいぐい飲む。
仕上げは「山芋たっぷりお好み焼き」。
満腹したあとは車座になって、だらだらとおしゃべりをする。
みんな卒論が半分終わったというので、だいぶご機嫌である。
話題は当然のように「結婚」のことになる(女学院生との宴会では必ず最後はこの話題に帰着する)。
早く結婚してばんばん子どもを生み舅姑などの他人と愉快に親密圏を構築しうる社会性を育成することが女としての急務であるといういつもの暴論を語る。
驚くべきは、「センセイのそういうセクシスト的発言こそが父権制社会の抑圧的なジェンダー構造を強化しているんです」というような教条主義的反論をする学生がすっかりいなくなってしまったことである。
ほんとうに地を掃うようにいなくなってしまった。
すべてを父権制社会の責任に帰するジェンダー論はたいへんにわかりやすく、使い勝手のよいものであったので、ひさしく人口に膾炙してきた。
たしかにその理路によれば事態はクリアカットに「説明」される。
だが、どれほど「説明」が鮮やかでも、それによって事態が「改善」されるかどうかは別の話だ。
そのことに若い人々は気づいてきたのである。
マルクスはかつて大切なのは「世界を説明することではなく、世界を変えること」であると書いた。
レーニンはそれを言い換えて「革命について語ることより、革命をすることの方がずっと楽しい」と書いた。
エロスの問題やリプロダクションの問題は、それについて理路整然たる百万語を費やすよりも、とりあえず手探りしながらでも実践躬行してみる方が、間違いなく学ぶことは多い。
みずからの知性と身体を通して強く深く学ぶこと。私が学生諸君に求めるのは、そのことだけである。
--------