台風の中の大学経営

2004-09-30 jeudi

台風が接近してきて、じゃんじゃん雨が降っている。
三宅先生の治療を受けにゆく。
昨日一日机にむかって身じろぎもしないで仕事をしていたので、身体が歪みきっている。とくに頸椎のつまりがひどいらしい(これは目の疲れ)。
くいくいとほぐしてもらう。治療が終わったときには視界が急に明るくなっていた。
おみやげに池上先生ご出演の三軸ビデオをもらう。
最近、東京でも「三軸修正法」を名乗る診療所がだんだんふえてきたらしい。
池上先生の講習を一二度受けたくらいで、池上先生が名前も知らない人がそういう名乗りをすると、あれこれややこしい問題が起きそうだと三宅先生が暗い顔をしている。
困ったものである。
だからといって「三軸修正協会」みたいな法人をつくって承認のパスを出すようなことになると、膨大な事務量になるし権益も発生する。
そうなると治療と関係ないビジネスマンがつられて入り込んできて事務局長とか理事長とかにおさまり、協会を私物化、派閥抗争、訴訟合戦、ついに池上先生「私は三軸協会とは何の関係もありません」と怒りの声明…というような不安な未来が透けて見える。
どうしたもんでしょうね、と三宅先生がいうので、とにかく法人化はよしたほうがいいですよ、ということを申し上げる。
会社を大きくして収益を上げて社員をふやして自社ビルを建ててIPO…というふうに考えていたのはバブル期までの「好天型」経営モデルである。
横町の天ぷらやとか下丸子の鉄工所くらいの「おじさんひとり」の自営業がこれからいちばん先端的な経営スタイルなのである(ほんとかね)。
とりあえず、速効的な解決法を思いついたので、首をぐりぐりしてもらいながら三宅先生にお伝えする。
「池上先生の方が、名前替えちゃえばいいんですよ。三軸プラス時間軸で、四軸修正法」
だめかしら。

すこし回復したので、「よっしゃあ」と気合いを入れて大学へ。
理事会と教授会有志との懇談会。
私が着任してから14年のあいだで、教授会メンバーと理事会メンバーがさしで話し合いの場をもつのは、これがはじめてのことである。
おそらくそれ以前にもあまりなかったことだろうから、これはある意味では画期的な「情報開示」機会である。その点については話し合いの場をもちたいという教授会の意向を、そのまま受け容れてくださった松澤理事長に深く感謝をしたい。
しかし、「話し合いの場をもちたい」という要望があがったのは、「どうも、理事会との意思疎通がうまくいっていないのではないか」という懸念がこの数年教授会メンバーのあいだにつよく根を張ってきたからである。
そう懸念するにはそれなりの原因があるのだが、それについてはかかる場で詳述するわけにはまいらない。
ともあれ、大学教職員の多くは「どうも理事会は教育研究の現場でいま何が起きているのか、あまりご存じないらしい」という印象を抱くにいたった。
私は「聖域なき自己点検」を職務とする自己評価委員長という役職上、この問題をいろいろと検討し、関係各方面への聴き取りなども行った上で、「この意思疎通の障害は学内理事数を増員すれば解消されるであろう」という結論を得た。
それを理事長に「委員長私案」として具申したのが春先のことである。
本学の理事数は15名。うち学内理事は3名(院長、学長、中高部長)。つまり、大学代表者は15分の1にすぎない。
学内理事の比率がそもそも他大学に比して例外的に低い上に、大学代表が1というのは、やや不均衡のそしりをまぬかれないであろう。
本学は収入の80%を学生納付金に依存している。
つまり大学は本学の「税収」の80%を負担しているにもかかわらず、その「税収」の使途を決定する「国会」には定員の7%の議員しか送ることができないのである。
これはあまり民主的な比率とは言えぬであろう。
「代表なければ課税なし」というのは、アメリカ合衆国の独立戦争のスローガンであり、アメリカの大学を出られた方の多い理事会メンバーはみなさま熟知されているところであるが、残念ながらこの原則を本学に適用することは自制されたようである。
これまでそのような非対称があまり問題にならなかったのは、現場からの要望がほぼそのまま理事会に受け容れられてきたからである。
しかし、ここ数年、理事会と大学教授会のあいだではひとつの深刻な状況理解の齟齬が生じ来た。
それは「少子化にどう対応するか」という問題をめぐる意見対立である。
この日記でも繰り返し書いているとおり、大学マーケットであるところの18歳人口は1992年の205万人をピークにして、2020年には112万人にまで42%の減となる。
マーケットが6割にシュリンクしつつあり、かつ日本の青少年の学力が先進国間の国際比較でほぼ最低レベルにまで低下しているときに、高等教育の質を維持向上させるためには、「マーケットと一緒に大学もシュリンクしてゆき、その中でゆきとどいた少人数教育を行う」というのが不可避の選択であると私は考えている。
私が考えているだけではなく、これは教授会が教員削減を機関決定したときの前提であった。
ところが、理事会はこれに同意してくれない。むしろ、できることなら今以上に学生数を多く採っていただきたいという。
なぜなら、学生数が減ると収入が減るからである。
それくらいのことは私にもわかる。
しかし、誰でもわかることだが、志願者が減る中で、入学者数を増やすということは、これまでなら本学に合格しなかった学力レベルの学生を受け容れるということである。
それがどのような結果をもたらすかは誰にでも想像できる。
「神戸女学院? ああ、誰でも入れる学校ね」
ということになる。
そのような世間の風評などは収入確保というリアルな要請の前には問題ではないというのなら、しかたがない。
しかし、「誰でも入れる学校」に来たがる受験生はあまり多くない。
おそらくそのような風評が定着した段階で、本学受験者はネガティヴ・フィードバック的に激減するであろう。
定員割れをして閑散としたキャンパスに、「あまり来たくなかったけれど、ここしか受からなかったから」という学生たちが暗い顔をして歩いている…というのはあまり心楽しい風景ではない。
本学で学ぶ動機づけのない学生を教える現場の労力と心痛は、そうでない場合とは比較にならない。へとへとになった教員たちはもっとモチベーションのある学生たちのいる他大学に、チャンスがあれば移りたいと思うだろう。
学生も教員も「そして、みんないなくなった」というしかたで大学はその天寿を全うするのであろうが、私はできることなら、そのような日が到来することを一日でも先送りしたいと願っている。
ダウンサイジングを選択しない場合にも本学がこの熾烈な大学淘汰の時代を生き延びられると、どうして理事会のみなさんが信じていられるのか、私にはうまく理解できない。
残念ながら、話し合いの後でも私はうまく理解できないままである。
ビジネスマインデッドな理事のみなさんはどうやらこの期に及んで「攻めの経営展開」というものを構想されているようであった。
優秀な学生がどんどん集まってくるような「新機軸」をどうして大学教授会は提言してこないのか、とかなり不機嫌な声を私は聞いた。
悪いけど、それは「ビジネスマンの発想」である。
たしかにビジネスにおいてマーケットは原理的には「無限」である。
一年前に買ったパソコンをゴミ箱に棄てて、新機種に乗り換えるというような嗜癖的な消費行動を前提にして日本の資本主義はまわっている。
消費者の欲望に点火しさえすれば、モノはいくらでも売れる。
「新機軸で一発起死回生」というのはビジネスの世界では「常識」である。
しかし、それは大学では常識ではない。
大学のマーケットは有限だからだ。
大学を毎年「買い換える」人はいないし、生涯に何度も大学に「出入り」するひともいない。同年齢集団の約半数が生涯に一度だけ入る、というのが大学マーケットのサイズである。
それが急減している。2020年までの数値を挙げたが、その先の減少傾向にも歯止めはかからないだろう。
その趨勢の中で教授会が考えた「新機軸」は、戦後60年間続いた「右肩上がり」幻想に別れを告げ、「本学建学の原点に立ち戻り、ほっこりとして知的なカレッジライフを提供する」というダウンサイジングの選択であった。
私たちは数年にわたってこのプログラムを検討し、本学のもてるソフトハード両方のリソースを最大に効果的に用いるのは、これしかないだろうという結論を得た。
残念ながら、理事会はこの「新機軸」を検討に値しないものと退けた。
「会社のダウンサイジング」というのは、ビジネス的には「敗北宣言」に等しいから、ビジネスマンご出身の理事のみなさんが「もってのほか」という拒否反応を示すことは私にはよく理解できる。
しかし、大学はそういう種類の「ビジネス」ではないということは繰り返し申し上げねばならない。
理事のみなさんはしばしばアメリカの私学の経営モデルを参照されるが、そのときに重要なファクターをひとつ勘定に入れ忘れてはいないだろうか?
それは、アメリカは欧米ではまことに例外的な「人口増加国」だということである。
私たちが教学の現場で問題にしているのは、まずはマーケットのサイズの絶対的減少という与件である。
すべてはこの与件から出発している。
そして、この問題について「正解」を処方した大学は歴史上まだ存在しないのである。
その他、理事会について申し上げたいことは多々あるけれども、それは大学教育一般にかかわる議論の水準にはないことなのでここには書かない。
がっくりと疲れて台風の予兆の強風の中を家路につく。
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