『先生はえらい』

2004-09-29 mercredi

業務連絡
まず大事なことから
10月は休講がばたばたあるので、連絡しておきます。特に遠くからお越しのみなさん。間違えて来ないでくださいね!
大学院演習:9月28日(火)、10月5日(火)、10月12日(火)すべて休講となります。5日から開講予定でしたが、「卒論中間発表会」があるのを忘れておりました。12日は本学の創立記念日で休日となりますので、みなさんにお目にかかるのは19日からとなります。後藤さん、東京から深夜バスで来て「休講掲示を見て愕然」ということにならないようにご注意ください。渡邊さん、光安さん、大迫くんも「仕事休んで来たら休講かよ…ンナロー」ということになりませんように。
この業務連絡を見た院生・聴講生の方はただちに「了解」のメールを内田あてにお願い致します。またこのホームページ掲示を見ていなそうな学友には確認メールを送って、「休講掲示見た?」とささやいてあげてください。(いい加減にML作らないといけませんね。これを機会に作成いたします)
「了解メール」の宛先は
uchida@tatsuru.com

学部は「比較文化学特殊講義:ユダヤ文化論」が10月4日(月)、11(月)、18(月)休講となります。4日は学会、11日は祭日、18日は友人の葬儀のため。
月曜5限の体育(杖道)はTAのウッキーが代講してくれるので、時間割通りに実施されます。
10月21日(木)のF121フランス語、専攻ゼミ1も休講。(東京で講演のため)
こんなに私用で休講しちゃうと教務部長から譴責処分を受けるかもしれないなあ…

9月28日
オフなので一日仕事をする。
この「休日なので、一日仕事をする」というパターンからいい加減に足を洗う必要があるなあ。
しかし、オフの日に一気に片づけないと、両肩にのしかかる原稿負荷は私の背骨をへし折るであろう。
朝の9時から夜の7時半まで、ほとんどみじろぎもしないで(家から一歩も出ず、ごはんも前の晩につくった「豚汁」を暖め直して朝昼晩と三度食べる)、『先生はえらい』の最後の書き直しをする。
うう、肩凝ったぜ。
『先生はえらい』はすでに日記に何度も書いているとおり、橋本治先生企画のちくまプリマー新書(来年初春より刊行)の一冊である。
日本の未来を担う青少年たちにおじさんおばさんたちがこってりと説教をかましたろやないけという企図は壮大だがセールス的には楽観を許されないプロジェクトである。
橋本先生は創刊に当たり「敬語論」『ちゃんと話すための敬語の本』を書き下ろされる。
まずはモデルとしてその橋本先生の草稿を拝読しつつ、粛々として書き直しをする。
先生の語り口というのは、

「だから私は『自信をもって分かんない』などという図々しいことを言います。私はそういうへんてこりんな言い回しが好きなので、嬉々として、『俺、もうなんにも分かんない。自信をもって分かんない。ああ楽だ』などと、とんでもないことを言うのです」

という、あれですね。
ご存じのように、私は文体的には小田嶋隆、村上春樹、椎名誠、高橋源一郎、ジャック・ラカンといった偉大なる諸先輩の影響を濃厚に受けてきたわけであるが、とりわけ『桃尻娘』以来の橋本先生の薫陶を受けて久しい。
であるから、橋本先生のテクストをかたわらに自作原稿に加筆修正するというのは、私にとってほとんど「臨書」に類する自己啓発的経験なのである。

『先生はえらい』というのは、タイトルからおわかりいただけるように師弟論である。
「先生はえらくない」ということを声高に主張する書物は巷間広く流布しているが、「先生はえらい」と主張する本はあまりない。おそらくほとんどない。もしかしたら一つもないかもしれない。
「教育基本法を改正せよ」「教育勅語を復活せよ」などと言われるみなさんはもちろん、「教師だって生身の人間だい」「教師は労働者である」という方向に力点を置かれるみなさんも、とりあえず「先生はそんなにえらいもんじゃないです、別に」ということについては衆議一決されている。
先生方のお気持ちも、あるいは先生方を罵倒される方々のお気持ちも、ウチダはわからないでもないが、そういうことだけで果たしてよろしいのであろうか、という警世の一石を投じるのが私の趣旨である。
私の「先生はえらい」論は、「えらい先生とはこれこれこういうものである」というような認知的なものではない(そんなことを言っても何も始まらない)。あるいは「いいから黙って先生の言うことを聞きなさい」というような政治的なものでもない(そんなことを言っても誰も聞きゃしない)。
そうではなくて、「先生」というのは定義上「えらい」ものである。あなたが「えらい」と思う人、それが「先生」であるという同語反復を断固主張するところの書物なのである。
同語反復してどうするんだ、という反論もおありだろうが、長く人生をやってきて分ったことのひとつは、人間に関する実効的な命題のほとんどすべては「同語反復」だということである(これについてはかのウィトゲンシュタイン先生も私と同意見である)。
「これまでの先生はえらい/えらくない」論は、おもに「先生」の方に軸足を置いた議論であった。
「どういう先生だったら生徒は言うことを聞くのか」とか「どういう先生だから生徒はなめてかかるのか」というような「先生」の実定的条件を論じるものが「教育論」のかなりの部分を占めていた。
私はそういう方法を採らない。
採りたくても、採れない。
だって、教育現場の事情をよく知らないから。
20年ばかりの大学教師経験から教育一般を論ずるのは「葦の随から天井覗く」に等しい。
私が行ったのは「えらい」の構造分析である。
「他者を『えらい』と思うのは、どういう心的状況、いかなる権力的付置のことか」という分析的・権力論的アプローチである。
これなら私も理論的に熟知している。
というのは、私がこの三年ほど集中的に読んできたレヴィナス老師とラカン老師はどちらも「えらい」の専門家だからである。
このことに気づいた研究者はあまりおられないが、実はそうなのである。
あの方たちは「えらい」というのはどういうことで、それがどのような教育的・分析的効果をもつのかということを、ほとんどそのこと「だけ」を考究され、書き残されているのである。
知らなかったでしょ。
私も最近まで知らなかった。
そうじゃないかな、とうすうす疑ってはいたのであるが、ラカン老師の次のことばを読んだときに目から鱗が剥離したのである。
ラカン老師は、ほとんどパリの全知識人およびウッドビー知識人がエコール・ノルマルの階段教室にひしめいたあの伝説的なセミネールの開講に当たって、こう言われた。

自身の問いに答えを出すのは弟子自身の仕事です。師は「説教壇の上から」出来合いの学問を教えるのではありません。師は、弟子が答えを見出す正にその時に答えを与えます。(「セミネールの開講」、『フロイトの技法論(上)』)

ああ、やっぱりそうだったのか。こ、これこそが「えらい」の本質構造だったのか…とウチダは頁をめくる手を震わせながら烈しく喘いだのでありました。
ともあれ、そのようにして目から鱗が剥離したあと、私は両老師のご高説をすべて「えらい」の構造分析というアプローチから眼光紙背に徹するまで読み直し、ついに「『先生はえらい』だって、『えらい人』のことを『先生』ていうんだもん」という必殺の同語反復に到達したのである。
「えらい」の構造分析を通じて、師弟関係の力学的構造が解明されれば、まあ、あとは原理的には「赤子の手をひねる」ようなものである。
ビジネスでいうところの「レバレッジ」(梃子)というやつである。
「われにレバレッジを与えよ、さらば宇宙を動かしてごらんにいれよう」とまではゆかないが、「えらい」のレバレッジ・モデルの解明を通じて、やがて日本の教育はあらたなフェーズに入ってゆくものと確信しつつ、新刊案内のご挨拶に代えさせて頂くのである。
--------