「濃いーーい」週末

2004-09-27 lundi

土曜日は朝日カルチャーセンターで三砂ちづる先生との対談。
合気道の稽古をお休みさせていただき、昼過ぎに新幹線に乗り込む。
テーマは「オニババ化する社会」と勝手に決める。それなら、私はただ三砂先生のお話を「ほうほう」とうかがっていればよいので、まことに気楽である。

車中で橋本治先生の『ああでもなくこうでもなく3』を読む。
さすがに「濃い」。
感動した箇所は多々あるのであるが、次のところがいちばん「来た」ので採録させていただく。

「クロートというのは『技術』によって成り立っていて、その『技術』とは仮面のようなものである。(…) クロートというのものは、自分の技術で『自分』を覆い隠してしまう。だから、クロートには『自分』がない。有能な技術者が家に帰ったら『無能なお父さん』になってしまうことがあるのもそのためで、有能なクロートの専業主婦が、ときどき『私の人生ってなんだったの?』と悩んでしまうのもそのためである。しかし、それでいいのである。クロートにとって『自分』とは、『自分の技術』という樹木を育てる土壌のようなもので、土壌はそれ自体『自分』ではないのである。一本の樹木しかないことが寂しかったら、その土壌からもう一本の樹木を育てればいいのである。それを可能にするのが『自分』という土壌で、土壌は、そこから芽を出して枝を広げる樹木ではないのである。だから、クロートは技術しか問題にしない。クロートの自己表現は技術の上に現れるもので、技術として昇華されない自己は、余分なものでしかないものである。(…)
 ところがしかし、シロートは技術を持っていない。技術を持っていないからこそシロートで、そのシロートは『自分』を覆い隠すことが出来ない。すぐに『自分』を露呈させてしまう。ただ露呈させるだけではなく、露呈させた自分を問題にしてしまう。『自分とはなんだ?』などと。
 クロートはもちろん『自分とはなんだ?』なんてことを考えない。それは、シロートだけが考える。クロートは、考えるのなら、『自分の技とはなんだ?』と考える。『自分のやってきたことはなんだ?』という悩み方をする。クロートが『自分とはなんだ?』と考えてしまうのは、自分を成り立たせて来た技術そのものが無意味になってしまった廃業の瀬戸際だけで、そんな疑問が浮かんだら、時としてクロートはそれだけで自殺してしまう。」(橋本治『ああでもなく、こうでもなく3 「日本がかわってゆく」の巻』、マドラ出版、』2002年、347-8頁)

どうして「来た」かというと、ほとんど同じことばを「ビジネスのクロート」である平川くんの『反戦略論』(もうすぐ洋泉社から発売)の中で読んだばかりだからである。
平川くんはこう書いている。

「あるときわたしが社長をしていた会社の女子社員のひとりが、会社を辞めたいというので、ではそのわけを聞かせてくれないかということになりました。
彼女が言うには、『この会社では自己実現できない』というものでした。『えっ? 自己実現て何なの』というのがわたしの最初の反応でした。
 当時社員数は 20 人ぐらいだったでしょうか。わたしの会社はおそろしく定着率の良い会社で、いわゆる寿退社以外にはほとんど会社を辞めようなんていう人はいませんでしたので、この女子社員の小さな『反乱』はちょっとした風を社内に持ち込みました。
 自己実現とは、自己の能力や可能性の全てを開花させるというような意味なのでしょうが、それがどのようにすれば『実現』できるのかについては、誰も答えをもっていないような欲求であるといわねばなりません。
 なぜなら、能力も可能性も、それが実現してみて初めて了解できるものであり、事前にそれぞれの人に登録されているリソースではないからです。
 『この会社では自己実現できない』と言った社員は、『別の会社でも自己実現できない』はずです。自己実現は、その定義からして環境によって実現しうるものではなく、自己実現といったものを実感したときには、すでに環境も変化しているというように、すべては事後的にしか実感できないものであるからです。
 いや、事後的にも実感できないといった方がいいのかもしれません。自己実現とは将来実現する能力や可能性なのではなく、ただ、現在の欠落感としてしか実感できないものであるといえるのではないでしょうか。」

「自己実現」とか「自分探し」ということばが、現代において支配的なイデオロギーの産物であり、これはあまりよい結果をもたらしていないということは、私もこれまであちこちで書いてきたけれど、期せずして私の敬愛するふたりの書き手も同じことを述べている。
「自己」というのは橋本先生が言うとおり「土壌」のようなものである。
あるいは「繁殖能力」(fécondité) といってもいい。
そこ「から」かたちあるものが出てくるのであって、それ自体は「エネルギー」や「トラウマ」と同じく、ある種の「仮説」であって、「はい、これ」と言って取り出せるようなものではない。
「そこから出てきたもの」を見てはじめて事後的に「こういうことができる素地」というかたちで「自己」は認証される。
でも「素地」というくらいだから、どんなものだかよくわからない。
定量的に語ることはたぶん誰にもできない。そこから生えてきた樹木のクオリティを見て、土壌としての生産性や通気性や保水力を推し測ることができるだけである。
「この会社では自己実現できない」という言明を発した人の場合、「そういう会社をみずから選択して、そこで『無駄な日々』を便々と過ごしてきた自分」というのが、とりあえずはそのひとの「樹木」である。そして、そのようなものしか育てることができなかった「土壌」がそのひとの「自己」である。
人間はその意味では、そのつど「すでに自己実現してしまっている」のである。
もし、そこで実現したものがあまりぱっとしないと思えるなら、樹木が生え来た当の足下にある「土壌」の肥沃化のためのプログラムをこそ考慮すべきだろう。
「土壌の肥沃化」なんていうと、すぐにあわてものは「化学肥料」や「除草剤」の大量投与のようなショートカットを思いつくだろうけれど、そういうのがいちばん土壌を痛めつけるのである。
土壌を豊かにするための方法はひとつしかない。
それは「繰り返し」である。
若い人にはわかりにくいだろうけれど、ルーティンをきちきちとこなしてゆくことでしか「土壌を練る」ことはできない。
土壌肥沃化に特効薬や即効性の手段はない。
土壌そのものが繁殖力を拡大再生産するようにするためには、一見すると「退屈な日常」としか見えないようなルーティンの繰り返ししかないのである。
その忍耐づよい労働をつうじて土壌の成分のひとつひとつがやがてゆっくり粒立ち、輝いてくる。
「練る」というのは、そういうことである。
「技術」というのは、千日万日の「錬磨」を通じてしか身に付かない。
ハウツー本を読んでたちまち身に付くような「技術」は三日で剥がれるし、バリ島やニューヨークに行ったり、転職するだけで出会えるような「ほんとうの私」からはたぶん何も生えてこない。

なことを考えながら東京へ。
新宿住友ビルの朝日カルチャーセンターに三砂先生、白石さん(医学書院)、足立さん(晶文社)という「いつものメンバー」が集合(安藤さん(晶文社)は「娘の誕生日」で欠席。「キャリアより家族がだいじ」という対談の結論を先取りしたような賢明な選択である)。
対談は『安達原』と「オニババ」のシンクロニシティ話から始まり、爆笑のうちに定時を過ぎてもさっぱり終わる気配がなく、30分オーバーしてようやく終演。
それでも二人ともしゃべり足りないので、三砂軍団の美女のみなさんにフジイもまじえた10人で新宿の「西湖」にどどどと乱入し、『オニババ化する女たち』と『死と身体』の刊行を祝って乾杯。
三砂先生に対しては「40-50代のフェミニスト」からのバッシングがすごいらしい。
たぶん彼女たちがこれまでのやってきたことを否定されたように感じるのかもしれない。
若い編集者が三砂先生の本の企画を上げると、「50代マルフ」の上司が「こんなもん出す気なの」と氷のような視線をするのだそうである。
おおテリブル。
しかし、フェミニズムを否定したり、戦ったりしてはいけないというのが私の持論である。
マルクス主義やフェミニズムのような対抗的イデオロギーは「それに反対する立場」の存在によって活力を補給し延命するという構造になっている。だから、その歴史的使命を終えたフェミニズム・イデオロギーに退場願いたいと思うなら、それをきびしく批判するのではなく、むしろ静かにその歴史的功績をたたえる「祝福」のことばをこそ送るべきなのである。
「イデオロギーの鎮魂」というのはとてもたいせつなことである。
わいわいしゃべっているうちにあっというまに12時となり、学士会館の門限を過ぎる。あわてて電話して「玄関あけておいてください」と懇願して、タクシーを飛ばして帰る。
三砂先生とは12月にまたこのつづきがある。こんどは私も着物を着てゆく。

早朝起床。ただちに新幹線に身を投じて芦屋に戻る。
車中、平川くんの『戦略論』の「おまけ」の巻末往復書簡(こればっかだね)を執筆。
家にもどって昼寝。
夕方ぼんやりと起き出して、シャワーを浴びて目を覚ましてから大阪へ。名越康文先生との対談の最終回である。
場所は福島のVarier ここは『ミーツ』のお薦めレストランということで、新潮社の足立さんが予約してくれたのである。
名越先生が秘書のかたを伴って登場(いいなあ、秘書がいて)。さっそくシャンペンで乾杯。
話題はもちろん名越先生出演の人気TV番組「グータン」の裏話。
「えええ、あの人って、そうなんですかああ」
的な「ここだけの話」がばんばん聴けて、たいへん幸福な気持ちになる。
もちろんテレビの話はまるごとカットなので、本にはならない。
しかたなく構想通り『14歳の子どもをもつ親のために』という教育的かつ分析的話題にもどる。
飯も美味しいしワインもうましで、だんだん舌の運びもなめらかとなり、日本社会は「とことんまで矛盾を拡大しておいて、最後にもうどうしようもなくなって一気にひっくり返す」という危険なやり方(私が「総長賭博方式」と呼ぶもの)で構造改革を実現しようとしているのでないかということで名越先生と意見の一致を見る。
4時間半わいわいしゃべって、お店の人の「営業時間とっくにすぎてんだけど…」的視線がちょっと冷えてきたので、やむなく話を畳んで対談を打ち上げる。
いやあ、面白かった。
名越先生とはまた違うかたちでぜひジョイントの仕事をしてみたい。
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