『オニババ化する女たち』

2004-09-24 vendredi

三砂先生から送って頂いた『オニババ化する女たち』を読む。
「オニババ」を三砂先生は次のように定義する。

「社会のなかで適切な役割を与えられない独身の更年期女性が、山に籠もるしかなくなり、オニババとなり、ときおり『エネルギー』の行き場を求めて、若い男を襲うしかない、という話だったと私はとらえています。
この『エネルギー』は、性と生殖に関わるエネルギーでしょう。女性のからだには、次の世代を準備する仕組みがあります。ですから、それを抑えつけて使わないようにしていると、その弊害があちこちに出てくるのではないでしょうか。」(3-4頁)

すごいな、三砂先生は。
ひとことでいえば(ひとことで言うのは失礼だけれど)、三砂先生の主張は、「はやくセックスしなさい」「誰でもいいから結婚しちゃいなさい」「とりあえず子どもうんじゃいなさい」ということになる。
こ、これはすごい。
「大人になると何が楽しいかといえば、昔は『セックスができる』ということにつきたわけです。」(211頁)
「つきたわけです」と言い切ってしまうところがすごいです。
「めかけのすすめ」とか「卵子の気持ち」とか「子宮を空き家にしてはいけない」とか、もう縦横無尽。
「負け犬」論争にも言及して、三砂先生はあそこで「負け犬」を自称している女性たちは社会的には「強者」であると看破している。

「今までずっと優秀で来て、勉強も仕事も見事にこなしてきたけれど、ふと気づくと結婚していなくて、キャリアウーマンになってしまっているので、あえて『負け犬』と自称しているという感じですよね。そしてそれはごく少数の、インテリ層の人たちの目に映っているような『エリート女性』の話で、ごくふつうの女性の話ではないと思います。」(139頁)

なるほど。
「負け犬」諸君も内心では「ちょっと条件を緩和すれば、結婚することなんて簡単なんだけど、なんか、安売りしたくないのよね」と思っているわけか。
マインドセットを切り替えさえすれば、いつでも「負け犬」状態はリセット可能であると思っているからこそ、にこやかに「負け犬なんですう。きゃいん♡」と言っておられるわけである。
三砂先生が問題にしているのは、そういう余裕のある方々ではなく、本格的な性的弱者である。

「放っておいたら、自分で相手もみつけられないような人たちのほうが、本当は数がおおいのだと思います。弱者という言い方をすると非常に語弊があるのですが、メスとして強くない人、エネルギーがそんなにない人たちのほうが本当は多いのではないでしょうか。」(139頁)

女性性を開花させる機会を逸したまま「オニババ化」するこのタイプの女性たちがもたらす社会的害悪をどのように最小化するか。三砂先生はそのように問題を立てる。
だから、「いいから、結婚しちゃいなさい。男なんて、まあ、どれも似たようなもんなんだから」とむりやり所帯を持たせた方がよろしい、というのが三砂先生のご意見である。
こういう考え方はフェミニストからは「女性の自立と自己決定を損なう父権制イデオロギー」として猛然と批判されてきたわけだけれど、少なくても「女として生きろ」というメッセージは発信してきた。
しかし、いまの女性たちには「女として生きろ」というようなはっきりした指針はもう誰からも示されない。
「好きにしていいのよ」
「そうそう、結婚なんかしなくていい。ずっと家にいればいいじゃないか」
「結婚なんかしても、いいことなんか、なんにもないんだから、ね、お母さんを見てるとわかるでしょ?」
「…」
という仲が悪いわりには妙に物わかりが良い親たちの囲い込みの中で、若い女性たちは組織的に「女として生きる」機会そのものを奪われている。
ここで「女として生きる」というのは、エロス的な活動を中心にして生きるということである。
エロス的活動というのはセックスや結婚には限られない。育児だってそうだし、親密圏の構築だってそうだ。
どのようなものであれ、「世代間で、何かたいせつなものを受け渡す」場に当事者としてかかわっているときに、人間は自分の中に「軸」や「芯」が通るのを感じる。
時空を超えて、長いリンクにひとつの環として自分はいま連接しているという実感を覚える。
もちろん経済活動だって、コミュニケーションの一種であり、私たちはたしかにそこで「他者とつながっている」という感覚をもつことができる。
というより、「他者とつながりたい」がために人類は貨幣を発明し、株式を発明し、マーケットを発明したのである。
しかし、経済活動だけではやはり人間の「他者とつながっていたい」という根本的な飢えを満たすには足りない。
ご存じのとおり、レヴィ=ストロースは「他者とのつながり」に三つの水準を設定した。
財貨サービスの交換、メッセージの交換、そして「女の交換」である。
経済活動、言語運用、親族制度。
この三つの水準で交換がバランスよく果たされているときに、人間は自分を「人間らしい」と感じることができる。
というか、人間の定義そのものが「この三つのレベルで交換を行うことに愉悦を感じる動物」というものなのである。
レヴィ=ストロースによれば、「男は『他の男が娘または姉妹として所有していた女』を受け取った反対給付として、自分の娘または姉妹を他の男に提供しなければならない」というのが「女の交換」の基本原理である。
フェミニストがどうして「男の交換」ではなくて「女の交換」なのか、それこそ男性中心主義的発想であるとさんざん批判したけれど、そんなこといわれても困る。
だって、「男の交換」では親族は形成されないからである。
「男の交換」とは「奴隷の交換」であり「労働力の交換」であり、所詮は経済活動である。
男はリプロダクションのリソースではないからだ。
当然でしょ?
次世代を再生産するためには、相当規模の社会集団でも、男は「種オス」が一人いれば足りる。
男の交換価値は「奴隷」としてのそれに限定されており、男には人類学的な意味での性的価値はないのである。
だから男なんかいくら交換しても親族は形成されない。
「女として生きる」というのは、この人間的コミュニケーションの場で、自分を「財貨・サービスの提供者」としてよりむしろ「親族形成の主体」として立ち上げるということである。
おっと堅い話になってしまった。これは明日三砂先生との対談でお話するとして、あとひとつだけ、大笑いしたところを引用。

「身の回りでよく見ることですが。たとえば看護婦として病院で働いている女性で、三十代半ばでとても綺麗で独身で、という人は、だいたい医者のそういう相手がいます。『いつかは君と一緒になるから』って言われていますけど、『なんないよっ』って言いたくなります。」(214頁)

とにかく抱腹絶倒の目ウロコ本であるので、若い学生諸君はただちに書店で購入するように。
それからフェミニストのみなさんからの熱い反論をお待ちしています。

オニババ化する女たち(光文社新書)
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