午前10時にベッドに戻る。眠りに落ちかけるたびに電話が鳴り、宅急便が届き、なかなか眠れない。
11時ころにようやく眠りに落ち、1時半まで眠る。
2時に『AERA』のI川記者がインタビューに来るのでベッドから身を引き剥がし、シャワーを浴びて目を覚ます。
お題は村上春樹の新作『アフターダーク』。
『AERA』?と不思議に思われるだろうが、『AERA』のコア読者層(30代女性)はムラカミファンとまるっとかぶっているのである。
なるほどね。
どうして文芸批評家たちは村上春樹をあれほど嫌うのか、という話から始まる。
村上春樹の仕事を積極的に評価している批評家は加藤典洋さんくらいしか見あたらない。
あとの批評家の過半は「無視」または「否定」である。
『すばる』の蓮實重彦の発言を見せてもらったけれど、すごい。
「村上春樹作品は結婚詐欺だ」(そのときだけは調子のいいことを言って読者をその気にさせるが、要するにぼったくり)というのは、批評というよりほとんど罵倒である。
シンポジウムの締めでの蓮實の結論は「セリーヌと村上春樹ならセリーヌを読め、村上春樹を読むな」というなんだかよくわからないものであった。
別にセリーヌも村上も両方読めばいいと思うんだけど(どっちも面白いし)。
そもそもある作家を名指しして「こいつの本は読むな」というのは批評家の態度として、よろしくないと思う。「まあ、いいから騙されたと思って読んでご覧なさい。私の言うとおりだから」という方が筋じゃないのかな。
批評家たちや作家たちがこれほど村上春樹を批判することに熱中するということは「村上春樹が評価される」ということと「批評家たちの仕事が評価されない」ということが裏表でワンセットになっているからである。
なにしろ、村上春樹は「批評というのは馬糞のようなものである」として、自作についての一切の書評を読まないことを公言しているんだから。
という世間話から始まって、「どうして村上春樹は評価されないのか」という根源的な問いへ進む。
もちろん、それは批評家たちの批評基準が、文学における「方法論的自覚」とか、「前衛性・革命性」とか、「自己剔抉の徹底性」とか、「被抑圧者のまなざしに肉迫」とか、そういう定型にいまだにとらえられたままだからである。
そのフレームワークから見れば、たしかに村上作品は「シティ文学」とか「リゾート文学」とかいうような、いかなる前衛性も革命性もないところの「知的消費財」にしか見えないだろう。
しかし、もし蓮實が言うように村上文学が単に現代日本の皮相な感性を操作するだけの「結婚詐欺」的なものにすぎないのだとしたら、彼の作品がまったく文化的なバックグラウンドを異にする各国言語に訳されて(フィンランド語訳まで出ているのだ)、アメリカの若い作家の中から「村上フォロワー」も登場しているという事実を説明することは困難になる。
蓮實は村上を罵倒する前に、どうして『表層批評宣言』が世界各国語で訳されて、世界各国から続々と「蓮實フォロワー」が輩出してこないのか、その理由についてせめて三分ほど考察してもよかったのではないか。
私見によれば、村上文学がワールドワイドなポピュラリティを獲得しているのは、それが知的ヒエラルヒーや文壇的因習を超えて、すべての人間の琴線に触れる「根源的な物語」を語っているからである。
他に理由はない。
村上文学は「宇宙論」である。
その基本的な構図はすでに『1973 年のピンボール』に予示されていた。
「猫の手を万力で潰すような邪悪なもの」。愛する人たちがその「超越的に邪悪なもの」に損なわれないように、「境界線」に立ちつくしている「センチネル(歩哨)」の誰にも評価されないささやかな努力。
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』という小説が村上春樹に与えた最大の影響は「ライ麦畑のキャッチャー」というのがある種の人間にとって「天職」として感じられるという経験であったと私は思う。
村上春樹はおそらく青年期のどこかの段階で、自分の仕事が「センチネル」あるいは「キャッチャー」あるいは「ナイト・ウォッチマン」である、ということをおぼろげに感知したのだ。
『アフターダーク』は二人の「センチネル」(タカハシくんとカオルさん)が「ナイト・ウォッチ」をして、境界線のぎりぎりまで来てしまった若い女の子たちのうちの一人を「底なしの闇」から押し戻す物語である。
彼らのささやかな努力のおかげで、いくつかの破綻が致命的なことになる前につくろわれ、世界はいっときの均衡を回復する。
でも、もちろんこの不安定な世界には一方の陣営の「最終的勝利」もないし、天上的なものの奇跡的介入による(deus ex machina)解決も期待できない。
センチネルたちの仕事は、ごく単純なものだ。
それは『ダンス・ダンス・ダンス』で「文化的雪かき」と呼ばれた仕事に似ている。
誰もやりたがらないけれど、誰かがやらないと、あとで誰かが困るようなことは、特別な対価や賞賛を期待せず、ひとりで黙ってやっておくこと。
そういうささやかな「雪かき仕事」を黙々とつみかさねることでしか「邪悪なもの」の浸潤は食い止めることができない。
政治的激情とか詩的法悦とかエロス的恍惚とか、そういうものは「邪悪なもの」の対立項ではなく、しばしばその共犯者である。
世界にかろうじて均衡を保たせてくれるのは、「センチネル」たちの「ディセント」なふるまいなのである。
仕事はきちんとまじめにやりましょう。衣食住は生活の基本です。家族はたいせつに。ことばづかいはていねいに。
というのが村上文学の「教訓」である。
それだけだと、あまり文学にはならない。
でも、それが「超越的に邪悪なもの」に対抗して人間が提示できる最後の「人間的なもの」であるというところになると、物語はいきなり神話的なオーラを帯びるようになる。
この勤労者的エートスに支えられたルーティンと宇宙論がどうやって接合するかというと、もちろんそれは「うなぎ」が出てくるからなんですね、これが(何?「うなぎ」のことをご存じない? 困ったなあ)。
ともあれ、私たちの平凡な日常そのものが宇宙論的なドラマの「現場」なのだということを実感させてくれるからこそ、人々は村上春樹を読むと、少し元気になって、お掃除をしたりアイロンかけをしたり、友だちに電話をしたりするのである。
それはとってもとってもとっても、たいせつなことだと私は思う。
明日から神鍋高原での合気道夏合宿。こんどは三日間PCのない生活です。ばいばい。
9月23日追記
『アフターダーク』はなんとなく『1973年のピンボール』と地下水脈でつながっているような気がしたので、『ピンボール』を読み返してみた。
そしたら、ありましたね。
「鼠」というのは、いわば「僕」の「ピュアサイド」というか「ダークサイド」というか「純粋さゆえの弱さ」を表象している登場人物である。
『風の歌を聴け』で「僕」が「鼠」の運命論にたいして「強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ」と反論するときに、「鼠」はことばを失ってしまう。
「ひとつ質問していいか?」
僕は肯いた。
「あんたは本当にそう信じてる?」
「ああ。」
鼠はしばらく黙りこんでビールグラスをじっと眺めていた。
「嘘だと言ってくれないか?」
鼠は真剣にそう言った。
「嘘だと言ってくれないか?」という懇請のことばを最後に、「鼠」は永遠に「僕」の前から姿を消す。
そのあとも、『ピンボール』にも『羊をめぐる冒険』にも「鼠」は繰り返し登場するけれど、「僕」とことばを交すことはもうない(『羊』のラストで「僕」の前に登場する「鼠」はもう死んでいる)。
その「鼠」が決定的にかつて「僕」といっしょに夏をすごした海辺の街から消えるのは『ピンボール』の終わり近くだけれど、彼が「僕」のいる世界から消えるのは、まさに「深い眠り」によってなのである。
これ以上は耐えられないというポイントを推し測って鼠は立ち上がり、シャワーに入り、朦朧とした意識の中で髭を剃った。そして体を拭き、冷蔵庫のオレンジ・ジュースを飲む。新しいパジャマを着てベッドに入り、これで終わったんだ、と思う。それから深い眠りがやってきた。おそろしく深い眠りだった。
そうやって「鼠」は「僕」の前から消えて、「別の世界」に行ってしまう。
そのようにして「鼠」を失ったことが「僕」の外傷的経験の核となる。
だから、『アフターダーク』では、眠り続ける女の横にすべりこんで、涙を流す人間を配したことは、「鼠」における「僕」の失敗を二度と繰り返さないという決意をこめた新しい「ナイト・シフト」なのだと私は思う。
『アフターダーク』と『ピンボール』にはもうひとつまったく同じフレーズがあった。気づいた人もいるかもしれない。
「おやすみ。」と鼠は言った。
「おやすみ。」とジェイが言った。「ねえ、誰かが言ったよ。ゆっくり歩け、そしてたくさん水を飲めってね。」
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(2004-09-17 23:53)