フランスへろへろ日記(前半)

2004-09-15 mercredi

9月1日
ブザンソン五日目。フランスに来てちょうど一週間が経った。あと二週間。
昨日の朝、医学書院から『死と身体』の再校ゲラが小包で届く。ブザンソンのホテルまで追っかけてきたのである。さすがスーパー・エディター。
そのまま開いて、赤ペン片手にこりこりと校正をする。もう再校であるから、直しはあまりない。誤植をいくつかみつけた程度で、ファックスで返信。
便利になったものである。
でも、ボーダフォンをもってきた学生さんは、ふつうに携帯メールをやりとりしていたから、この次にブザンソンに来るときは、きっとパソコンも面倒な接続なしで、そのまま通信ができるようになっているのであろう。
そうなると、もう芦屋にいるのと、ブザンソンにいるのと変わらなくなる。
それがいいことなのか、悪いことなのか、よくわからない。
もちろん、今でももってきたパワーブックをネットにつなぐことは可能なのであるが、その手順を私に説明する手間を考えたら、イワモト秘書が「つながない方がいい」という結論に達したのである(という話は前に書きましたね)。
私に説明するくらいなら、直接自分がフランスまで来てつないだ方がよほど早い、とまでわがIT秘書は言っていた。
それほどにこの手のものと私は相性が悪いらしい。
私がインストールすると作動しないアプリケーションを秘書がやると作動する。私が押しても作動しないキーを秘書が押すと作動する。そういうことがあまりにしばしばあるので、パソコンに「嫌われている人間」ということにされてしまったのである。

再校が終わったので、ちくま新書の原稿書き。
ぐいぐいと書いているうちに50枚ほどになる。
全部で何枚書くんだか、忘れてしまった。ふつうの新書が200枚だから、150枚くらいだったかな。だとするともう三分の一終わったことになる。このペースだとブザンソンにいる間どころか、今週中に書き上がりそうである。

学生諸君は授業でぐったり疲れて、放課後市内に買い出しに出かけると、そのままホテルに帰って、それをぼそぼそ食べて、テレビを見て、寝てしまうらしい。
誰も夕食でかける相手がいない。
カフェでモナコを飲んでから、ひとりでレストランでご飯をたべるのも曲がないので、いつのまにかブザンソンにもずいぶん増えたギリシャ・レストランでテイクアウトの焼き肉サンドとビールを買って部屋に戻り、『リベラシオン』を読みながら、ご飯。
TVではバグダッドで誘拐された二人のフランス人ジャーナリストのことをずっと報道している。
フランスで先年法制化された「公立学校での宗教的服装の禁止」(具体的には女性のヴェール着用禁止)を廃止することを犯人グループは要求している。
フランスはイラク戦争開戦以来、一貫して占領軍に施策に批判的であったので、この人質事件の発生はフランス人にとってはかなり衝撃的なようである。
政府は全力をあげての救出外交を展開している。
最悪の結果になった場合、フランスに居住する数百万のイスラム教徒は今後かなり深い心理的な傷を負うことになるだろうし、彼らのフランス社会への統合は少なからぬ停滞を余儀なくされるだろう。
テロリストはもちろんそういう事態をこそ期待しているのだろうが、同胞が異国で孤立し、その結果マイノリティとして純化することをめざす発想はあまりに貧しい。

8月30日
ブザンソン三日目。いよいよ本日からCLAの研修が始まる。
今回はCLAのお隣に投宿しているので、たいへん楽ちんである。
8時半集合というので、でかける。
本館の5Fに集合ということで顔を出すが、登録に集まった生徒の数がずいぶん人が少ない。60―70人というところであろうか。
EU諸国でのフランス語使用者がこのところ激減しているということを先日日本の新聞で読んだ。
たぶんそういうことなのだろう。
94年に最初にここに来た頃は、北欧や東欧やイギリス、イタリアからもずいぶんスタジエールが来ていた。
その後アジア勢が優勢となり、カンボジア、ベトナム、韓国、中国、そして日本がCLAのメインクライアントとなっていた。
フランス人にとっては「フランス語が世界の公用語でなくなる」というのは、足下が崩れ落ちるような「アイデンティティ・クライシス」を意味するのであろう。
その感じは、世界中どこにいっても(ハワイとパリのブランド店以外は)日本語が通じない」ことを自明だと思っている私たち日本人が想像することはむずかしい。
「英語が通じなくなった世界におけるアメリカ人の困惑」というのを想像してから、そこから現在のフランス人の困惑を想像すれば、すこしは分かって頂けるだろう。
フランス語を習う人が減った時代のフランス人の困惑が想像しにくいというのは、逆に言えば、私たちが「そういうこと」をこれまでぜんぜん夢想だにしたことがないということである。
「日本語を世界の公用語に」とはいわないまでも、世界のどの国に行っても、公的な立場(警察とか郵便局とか市役所とか)や学校の先生や知的職業人の中には日本語ができる人が必ずいるというような文化的な「足場」を構築するということを、私たちはたぶんこれまでほとんど考えたことがない。
そういう「知日派」を拠点にして、日本とその国のあいだの相互理解を深め、グラスルーツの外交を展開してゆく。そのためには惜しまず先行投資を行う、ということをたぶん政治家も外務省や文部科学省の役人も、これまで一度もまじめに考えたことがないのではないだろうか。
というのは、こういう知日派構築とか日本語教育のための文化的インフラ整備というのは「国家百年の計」であるが、日本の政治や役人は日本の百年先のことなんかまるで考えていないからである。在任中に事件化さえしなければ、どれほど将来に禍根を残すかもしれない制度上の問題にも目をつぶって、満額の退職金を頂いて、あとを後任に押しつけて逃げ出す、というのが日本のエリートたちの習い性である。
50年後に芽を出し、100年後に結実するような迂遠な政策の立案を彼らに望んでも仕方がない。
そんなことをブザンソンで愚痴っても始まらないけれど、不要不急の高速道路を造るお金があったら、海外諸国に日本語話者を一人でもふやすために予算を投じたらどうかと思う。
もちろん日本語学校というのは日本にはいくらもあるけれど、その目的が知日派の外国人を増やし、日本語の国際社会における公用語化に資することにあるようには思われない。
むしろ、日本にお金を稼ぎにやってきた外国人からさらに収奪することが本旨であるような気がする。
そういうことをしていると国際社会でしかるべき敬意を得ることはできないように思うけれど、そういうことに日本人はあまり興味がないみたいである。
なんだか悲観的になるのは、フランスにわずか1週間いるだけで、日本という国がいかにフランスにとって「どうでもいい国」と思われているかがしみじみ分かってくるからだ。
だって、1週間毎日『リベラシオン』を隅から隅まで読んでいるのに、日本についての記事が一つもないんだもの。
これはけっこう切ない。
日本文化でこの国に根付いているのは電子的ガジェットと「マンガ」。
要するに「秋葉原的=オタク的なもののパワー」ということなのかな。日本が世界に誇れるのは。

8月29日
ブザンソン第二日。
朝から雨。寒い。
洗濯をする予定であったが、雨では無理。
しかたがないので、仕事。
『ブランショ論』の加筆修正が終わる。
昼頃に雨が上がって、雲の間から薄日が差してきたので、とりあえずお出かけすることにする。
まずはいつものように Cathédrale St.Jacques にお参り。浄財0.9ユーロを投じて、お灯明一本を聖母子像に奉献して、一同の旅の無事を祈念する。
ぷらぷらと街を歩くが、人気がない。店も日曜なので、ほとんどお休み。
開いているカフェで café au lait を喫してのち、部屋に戻り、仕事。
ちくま新書の『先生はえらい』を書き始める。
なんとなく調子が出てきて、ぐいぐい書き進んでいると、学生二人が仕事の邪魔をしに来る。
駄弁を弄してお相手をしているうちに時分時となり、それではというので連れ立って centre ville へ。
Pont Battant を渡って左側の Au Feu Vert というカフェレストランで食事。
Menu Régional(ご当地定食)を食す。
ポテトとソーセージにチーズのドレッシングのサラダとポテトとソーセージとチーズのグラタン、デザートと un quart のワインが付いて、15ユーロ(日本円で2000円ほど)。
ボリュームたっぷりだが、アントレとプラがどちらも同一材料であるというのは、いかがなものか。オ・フ・ヴェールのめにう企画者には猛省を期したい。
満腹したんで、川風になぶられつつよろよろとホテルに帰投。
テレビではオリンピックの閉会式をやっている。
フランスも今回のオリンピックはぱっとしなかったらしく、テレビではアナウンサーたちが眉をひそめて敗因の分析などをしている。
つまらないので、ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』を読みつつ寝る。この原作では「ヴァン・ヘルシング」となっていた。こっちが正しいのかも。

8月28日
移動日。雨のパリを出て、リヨン駅からTGVでブザンソンへ。
前回は駅にブルーノくんとコッシーが迎えに来てくれていたけれど、今回、ブルーノくんは私たちに三日遅れてブザンソンで合流する約束である。
パリは雨だったが、ブザンソンは秋晴れ。
投宿先は新築のHotel Ibis。CLAの隣。校舎まで徒歩20秒である。
ビジネスホテルのチェーン店なので、パリのホテルに比べると風情も何もない部屋であるが、清潔で明るい。
とりあえず、ここに腰を据えて2週間の間に、ブランショ論の旧稿の手直しを済ませ、新書を一冊書き上げる予定である。
月曜に学生たちの受け入れ手続きと、提携校協定の更新の話し合いがあるが、それ以外には仕事らしい仕事はないので、集中できればそれなりに効率よく仕事ができるはずである。
朝から夕方まで仕事をして、夕方からガルシエ道場でブルーノくんと合気道の稽古をして、終わってから一緒にビールを飲む・・・という95年以来の「夢のワンパターン」が今年も期待できそうである。
でも、ブルーノくんが期待どおり日本大使館勤務となってしまったら、「夢のワンパターン」はこの夏が最後ということになる。そう思うと、なんだか寂しい。
投宿後、一休みしてから学生たちを連れて、街を案内する。Le Doub 沿いに Pont Battant まで行って、Grand Rue を歩きながら、「ここが Mono Prix ここが 8 Septembre 広場、ここが Galerie Lafaytte・・・」って?ここって3年前は Nouvelle Galerie という名前のスーパーだったのに。
いつも夕方の一杯を楽しんだ Granvelle のカフェも模様替えして、イタリアンの店になっていた。
歳月人を待たずである。
学生さんたち6名ととりあえず Place Granvelle の緑の木の下で、アペリティフを頂き、そのままイタリアン・ディナー。
なかなか美味しい。
腹ごなしにぷらぷらと暗い Rue Mégevand を歩き、市庁舎の横を抜けて、Pont Canot を渡ってホテルに戻る。
考えてみるとブザンソンに来るのも、94年以来これで6回目。ということは、そのへんで走り回っている子供たちよりも昔からこの街のことを私は知っているのである。
親しい街にいるような、アウトサイダーであるような、なんだか不思議な感じがする。

8月27日
パリ三日目。今日はオルセー。
いつもはオランジュリーでモネの「睡蓮」を見ながら昼寝をするというのが決まりなのであるが、オランジュリーが年末まで閉館なので、オルセーに印象派を見に行く。
91年以来、13年ぶり。
モネ、マネ、ルノワール、セザンヌ、ゴッホ、ドガ、シスレー、ピサロ、スーラ、ルソーなどをくるくると見て回る。
印象派はほんとによいね。
お土産店で印象派グッズを買い漁る。
同行の学生さん二人(K室とF田、どちらも私の基礎ゼミ・文献ゼミの学生さん)とサンジェルマン・デ・プレまでたらたら歩いてご飯。
リュ・サン・タンドレ・ゼ・ザールをサンミシェルまで戻る途中でセーターを購入。89ユーロ。寒いんだもん。
ホテルに戻って『吸血鬼ドラキュラ』を読みながらお昼寝。
夕方に目覚めて、お風呂に入ってからブランショ論の仕事の続き。
7時半まで仕事。
学生さん5人とカルチェ・ラタンのレストラン街へ繰り出す。
みなさんの希望で本日もギリシャ料理。安いからね。
シーフード・サラダとブロシェット(仔羊とソーセージ)のムニュで13ユーロ(1500円くらい)。ワインをちょっと飲む。
満腹して、でれでれとホテルに戻る。
旅行と時差の疲れが今日一日でだいぶ取れた。
明日はいよいよブザンソンに移動である。

8月26日
パリ二日目。時差で夜中に何度か目が覚めるが、とりあえず7時半まで寝る。
ホテルのレストランで朝食を食べる。部屋でごろごろしていると、学生諸君が「行ってきます」とご挨拶に来る。早朝からみなさんあちこちに観光にご出発である。
10時ごろに私も部屋を出て、まず恒例の「お灯明」のためにノートルダム寺院に赴くが、昨日に引き続きここでもパリ解放60周年行事をしている。シラク大統領が来ているとかで、きびしく警備していて中に入れない。
しかたがないので、踵を返して、近場その2のサン・ジェルマン・デプレ教会に変更。
お灯明を二本上げて一同の旅の無事を祈る。
世界中どの言語で祈っても天には通じるはずであるが、いちおう「地場」の神様がお相手なので、フランス語で祈って恭順の意を表する。
こういう節度のなさが釈先生に「シンクレニティスト」と呼ばれる所以である。
教会の入り口で物乞いをしているお乞食さまたちに浄財を喜捨して、彼らにも当方の旅の無事を祈って頂くことにする。
恒例の行事が終わったので、ほっとしてサンミシェルのカフェでお昼を食べる。サラダ・ニスワーズとハイネケン。
フランスにいると平気で昼からお酒を飲むようになるのが問題である。
ビールがたちまちまわって、はげしく睡魔が襲ってくる。ただちにホテルに帰投し、パジャマに着替えて、愉しいシエスタ。
夕方目覚めて、心を入れ替えて、PCを開けて、仕事。
まずはブランショ論の加筆修正。
ジャン・ポーランの『タルブの花』が復刻されるのだが、それに私の大昔のブランショ論が「おまけ」で付くのである。
「『文学はいかにして可能か?』のもう一つの読解可能性:面従腹背のテロリズム」という、これは私のデビュー作といってよい、古い論文である。
『文学はいかにして可能か?』というのはブランショが1941年に発表したポーランの『タルブの花』についての小論である。
内容的にはオリジナルの完全な「要約」であって、論争的な性格のものではない。
『タルブの花』は41年にガリマールから出版され、『文学は・・・』の方は、翌年にジョゼ・コルティ書店から300部の限定版で出た(単行本になる前に41年に別の雑誌に発表したものだから、実質的にはポーランの本の直後に書かれたものである)。
どうして、出たばかりの本の「要約」をブランショがしたのか。その意図がよくわからない。
この「要約」の冒頭は「テクストには凡庸の読み方と、難解で危険な読み方がある」という挑発的な言葉から始まる。
ということは、この論文は要約というかたちをとっているけれど、「難解で危険な読み」を試みたものであるという仮説が成り立つ。
41年というのはパリがナチスの占領下にあった時代であり、すべての出版物は検閲を受けていた。
そのような状況で「危険な」というのは、「そういう意味」と解してまず間違いないところであろう。
私の仮説は、ブランショのテクストは文学論を偽装した反ドイツ的な政治的テクストであるというものである。
文学論をどう暗号化して、政治的テクストに書き換えたのか・・・その手際を解明するのがこの論考のねらいである。
私はどうも昔からこういう「暗号解読」的なテクスト読解が好きだったらしい。
興味のある方は本買って下さいね。

そんなことをしているうちにオノさんがやってくる。
オノさんは女学院の卒業生で、うちのフジイとかホリくんとかコンバちゃんとか先年夭逝したツジタくんと仲がよかった仏文の研究者である。パリ大学でバタイユの博士論文を準備中。
昔話をしているところに飯田先生とその従妹でパリに留学に来たバイオリニストの美少女(飯田先生はその「つきそい」でパリに来られたのである)がやってきて、すぐにブルーノくんがやってくる。
五人でぞろぞろとブルーノくんの案内でポンピドゥ・センターの近くの中華料理にでかける。
青島ビールをくいくい飲み、餃子、鴨、麻婆豆腐、牛肉炒め、野菜炒めなどをぱくぱく食べながら、フランス・ポルノ事情というようなあまりハイブラウでない話で盛り上がる。
「安くて美味しいです」とブルーノくんが言うだけあって、五人で腹一杯食べて38ユーロ、ひとり1000円くらいである。
どうやら「お巡りさん割引」があったらしい。
帰りに夕闇迫るポンピドゥ・センター前のカフェでディジェスティフを頂きながら、たいへんハイブラウなバタイユとラカンとレヴィナスの話などをする。
飯田先生と飲んで笑っていると、パリにいるのか神戸にいるのか、よく分からない。次にお会いするのは神鍋高原の合宿である。
オノさんもいたし、ブルーノくんは「ブルドックソースをかけたお好み焼きが食べたい」なんて言ってるし、なんだかパリと日本がまるっと地続きみたいな気分になる。
みんなでたらたらとシャトレまで歩いて、散会。

8月25日
午前11時15分関空発。AF291便にてパリへ。
学生12名と私を入れて、総勢13名、3週間の旅である。
全員集合時間にちゃんと集合。あれこれの手続きの後、機内の人となる。
同じ便にフランスの学会にゆかれる阪大のK木先生ご夫妻もたまたま同乗されていた。ムッシュはかつて本学の専任教員であり、マダムはいまも女学院の非常勤でフランス語を教えておられるので、今回のスタジエールの中にも教え子が何人もいる。神戸女学院とは因縁浅からぬお二人と席も前後ろとなり、おしゃべりしながらの旅となる。
それにしてもエコノミー席は狭いね。
壁の前の席だったので後ろに倒れるスペースがない。前の席をリクライニングされると、ほとんど「ドランシーからアウシュヴィッツへ送られる護送列車」的空間となる(床に落ちた眼鏡を拾うことができないし、隣の二人を叩き起こして跨ぎ越さないとトイレにもゆけない)。教師ひとりがビジネスというのはあまりに差別的だから、このプロジェクトが続く限り、老体に鞭打って12時間の苦行に耐えるしかない。航空会社はこの非人道的なエコノミー席をなんとかすべきだと私は思うけど。
しかたがないので「とっさに使えるフランス語ひとこと集」のMDを繰り返し再生して睡眠学習する(「泥縄」もいいところだな)。
この「とっさに使えるひとこと」というのは、なかなかよい考え方である。
むかし、同業のS野くんと「戦うフランス語」という教科書を企画したことがある。
フランスにいると、窓口や売場やホテルで、フランス人のどうにも理不尽な対応に「むかっ」とくることがしばしばある。しかるに、こういうときに「とっさの憎まれ口」というのがなかなか出てこない(というのは。私たちが教科書で習ったストックフレーズはすべて「たいへんフレンドリーなフランス人との友愛あふれる会話」によって構成されているからである)。
しかし、旅先で私たちが遭遇するのは、しばしば許し難い不条理や非常識である。そういう場合に、友愛的メッセージはあまり効果的ではない。むしろ、「てやんでえ、べらぼうめ。こちとら江戸っ子でい。てめえ、そんな作法で世間が通ると思ったら、えれえ了見違いだぜ」というような啖呵をフランス語でさらっと言い切って、気分よくその場を後にしたいというふうに私などは考えるのである。
その点で、この「とっさのひとこと集」はすぐれもので、その手の悪口も潤沢に収録されている。
半睡状態で「戦うフランス語」を仕入れつつ、無事にパリ着。
bagageでトランクが出てくるのを待っていると、「ウチダ先生ですか?」と妙齢のご婦人に声をかけられる。
びっくりして振り返ると

「先生のHPいつも読んでます。関空でおみかけして、すぐ分かりました」

聞けば、私の高校時代からの友人で同業者のN井珠ちゃんのお友達で、日本に一時帰国してフランスに帰国する飛行機がたまたまご一緒だったそうである。
それにしてもフランスで私のHP日記を読んでいる方がおられるとは思わなかった。しばし歓談。
パリ市内に向かうバスにK木先生ご夫妻も同乗して頂いて、雨の中をパリへ向かう。
あいにく、25日はパリ解放の60周年記念、ドイツ軍から警視庁が解放された日に当たり、当時のレジスタンのみなさんが警視庁に集まる行進があったそうで、オーステルリッツ橋からサン・ミシェル橋まで1時間半も渋滞(歩いてもせいぜい7,8分の距離である)。
ホテルにブルーノ君を1時間近く待たせてしまった。
とりあえず投宿ののち、ブルーノ君と久闊を叙す(ブルーノ君はたいへん正確な日本語をしゃべるので「ああ、私はウチダ先生にまたお会いすることができて、たいへんに光栄です」というようなことを言う。私は「長い間連絡しなくて、すみません。元気そうですね。私も君に会えてうれしいです」というような初級文法書的なフレーズをごにょごにょとフランス語で言う。
ブルーノ君と彼の copine のT橋さんと一緒に、とりあえずカルチェ・ラタンのレストラン街にご飯を食べにゆく。
時差が8時間あるので(フランスはサマータイムなので、制度上は7時間)、午後9時ということはウチダの体内時計的には26日の午前5時である。夕食には変な時間であるが、フランス時間にこちらの身体をあわせなければいけない。
アテネオリンピック開催中ということで、開催国に敬意を払って、ギリシャ料理を選ぶ。美味しい(シシカバブーみたいな)串焼きを食べ、マラソンビールというギリシャの地ビールを飲み、軽くワインを頂き、歓談することしばし。
ブルーノ君は「日本語を話せるパリでただ一人のお巡りさん」ということで、パリで日本人観光客が盗難被害に遭うと、とりあえずみんな8区の警察署の彼のところに回されて来るそうである。被害者に対してたいへんフレンドリーに接するので、日本人からいろいろと感謝されて、先般は「パリのやさしいお巡りさん」ということでテレビ朝日の取材を受けたそうだ。在日フランス大使館勤務に転勤願いを出しているということなので、いずれ東京で会えることになるかもしれない。
すごく眠くなってきたので、1時間半ほどおしゃべりしたところでホテルに引き上げ、爆睡。
二日目はとりあえず、恒例に従って、まずノートルダム寺院に行って、旅の無事を祈ってお灯明を上げることにする。そのあとはぶらぶら初秋のパリを散策するかな。
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