フランスへろへろ日記(後半)

2004-09-13 lundi

9月13日
パリ最終日。
さすがに「死のロード」三週間のホテル暮らしは疲れる。
胃がしくしくと痛んでくる。
起きると曇天。肌寒い。
出かける気もしないので、机に向かって朝から仕事。
昼近くになって、お掃除が接近してきたので、部屋を出てポンピドゥ・センターへ。
おなじみのブラック、モディリアニ、カンジンスキー、ミレー、ミロ、レジェ、ダリなどを見て回る。
マルセル・デュシャンの「泉」その他の作品もポンピドゥ・センターの所蔵になっている。
しかし、ひどいよな、これは(「泉」というのは男性用小便器を横に置いただけのしろものである)。
ピカソの「雄牛の頭」は自転車のハンドルとサドルを重ねただけのものであるが、芸術性という点では天地の差がある。「雄牛の頭」からは雄牛の生命力があふれるばかりにほとばしっているけれど、デュシャンにはそういうものはなにもない。
ダリやマグリットもここで見るといやにあざとく感じられる。
今回いちばんよかったなあと思ったのはカンジンスキーとウジェーヌ・ルロワ。
ルロワの作品は絵の具を2センチくらい塗り重ねたぐちゃぐちゃのタブローなのだけれど、「こういうふうに油絵の具を塗りたくらずにはいられなかった」衝動がびしびしと伝わってくる。
7ユーロで現代美術史を2時間で通史的に見られるというのは、まことに恵まれた芸術的環境である。
そのポンピドゥ・センターの前の広場でへたくそな似顔絵を描いている連中がいるけれど、君たちは恥というものをしらんのか。
広場ではモンゴルの三人組が二弦の楽器を弾きながら「ホーミー」をやっている。
生でホーミーを聴くのはこれが初めてである。
気錬会のヤマキョー君がホーミー奏者であるという話をQ田さんの日記で知ったが、いいよね、これは。2曲聴いて3ユーロを投じる。
寒空の下をとぼとぼ歩いてホテルに戻り、シャワーを浴びて昼寝。
五時にブルーノくんがホテルまで迎えに来てくれたので、15区の彼のアパートまで夕食をごちそうになりにゆく。
お土産にモエ・エ・シャンドンを持って行く。酒屋で35ユーロ。日本より高いじゃないか。
ブルーノくんのアパートはブザンソン時代と同じく「日本的デコレーション」。『ティファニーで朝食を』のユニオシさん(ミッキー・ルーニー)のアパートの内装を思い出していただけると当たらずといえども遠からずである。
夕食はヨシエさんが作ってくれる。
トンカツとキムチとラーメン・ライス。
トンカツに「ブルドックソース」をかけて食べる。美味なり。
ラーメンは「シマダヤの醤油ラーメン」。これまた美味なり。
玉置浩二と桑田佳祐の曲をバックにフランス人はなぜ離婚するのか(離婚率は60%を超えたそうである)について語る。
意外にもサザンの曲はパリの日没にたいへんよくマッチする。
今回いろいろと聴いてみたが、秋風の吹くサンミシェル通りを歩くときにはジャズがたいへんよく合った。

9月12日
9・11テロから3年経った。
カフェで『リベラシオン』の特集記事を読む。
フランスのメディアはブッシュの中東戦略には一貫して批判的である。
日本でもすでに報道されていたとおり、9・11テロについては事前にさまざまな情報機関がかなり具体的な情報をつかんで対策の必要を訴えていたが、ホワイトハウスはこれを無視し続けたらしい。

6月にアルカイダのテロ計画が加速しており、「何かきわめてきわめて大規模なこと」が準備中であることが報告されたが、ホワイトハウスはこれを無視した。
7月には「ビン・ラディンの攻撃計画は2ヶ月遅延するが、計画自体は放棄されていない」という報告が上がったが、ブッシュ大統領はテキサスで休暇中であった。
8月にはアメリカ本土を標的にするハイジャックによるテロ計画が進行中であることは、ほぼ確実視されていたが、依然としてホワイトハウスは「行動を起こすには情報が不十分」として静観し続けた。
テロリストのうち二人は8月段階ですでに監視下にあり、ミネソタでボーイング747の操縦法を学んでいた一人はビザの期限切れで別件逮捕されていたが、それ以上の調査は行われなかった。
反テロ対策の無策で露呈したアメリカ政府と情報機関の機能不全がそのまま今日のイラク戦争の泥沼化と世界的なテロの拡大につながっている。

という論調である。
国内に400万人のイスラム教徒(カトリック信者についで、第二位の宗教集団である)を抱えるフランスの「イスラム過激派」への懸念は私たち日本人の想像を超えるものがある。
いかにしてイスラム系市民の「過激化」を抑止するか、いかにして国際的テロリスト・ネットワークの浸潤を阻止するかはフランスの現在最優先の政治課題である。
そのためにフランスはイスラム系市民の「フランス社会への統合」という政治方針を推進している。
イスラム系市民を孤立化させないこと、排除や迫害の対象にしないこと、市民としての権利を擁護する代償に市民としての義務の履行を求めること。
これはかつてフランス革命のとき、議会でアベ・グレゴワールがユダヤ人解放令に際して「市民としてのユダヤ人にはすべてを与え、国家としてのユダヤ人には何も与えない」と宣言して以来のフランス政府の対マイノリティ政策の基本である。
公立学校での宗教的服装を禁じた法律は先週大きな抵抗もなく無事に施行された。
これによって「宗教はあくまで私事である」として市民社会の原理を貫いたフランス政府の次の悩みの種は、来年からビザなし滞在が許可されることで予想される中国人の大量流入である。
中国人たちは宗教的なセクトを形成するわけでもないし、テロリズムを呼号することもない。しかし、中国人たちはかなり排他的な社会を形成しており、経済活動には熱心だが、市民的義務の履行にはあまり興味がないらしい。
パリ市警に勤務するブルーノくんによると、チャイナタウンは非常に治安が悪いにもかかわらず、ほとんど殺人事件が起こらないのだそうである。
「だったら治安がいいってことじゃない?」と言ったら「そうじゃなくて、死体が出てこないんですよ」とぼやいていた。
自由を愛するすべての人々の祖国であると宣言して、移民の受け容れを進めてきたフランス人たちであるが、ここに来てずいぶん苦しそうである。
などということを考えつつ、秋晴れのパリを散策。
ノートルダムでミサに出て、ついでにお灯明を上げ、ピカソ美術館へ。
ピカソを堪能しての帰り道に、新しくマレーにできた「ユダヤ美術・歴史博物館」を訪れる。
ものがものだけにセキュリティが厳しい。身体検査があったが、「日本人です」と言うと、「じゃ、いいよ」とあっさりと入れてくれる。
サービスの丁寧さと館内の清潔さは他の公立施設と段違いである。
あるいはこういうところから「日本人とユダヤ人の同質性」という発想が出てくるのかもしれない。
「仮庵の祭り」の「仮庵」とか「ハヌカ」の燭台の実物をはじめて見る。ユダヤ教の本を何冊も訳してきたにしては、まことに不勉強な学者である。

9月11日
午前9時45分にロビーに集合して、バスでブザンソン駅へ。TGVに乗って、ガイドの今津さんと日仏セキュリティ事情についてあれこれとおしゃべりしながら、1時半にパリ、リオン駅着。バスでサン・ジャック通りのラ・トゥール・ノートルダムへ。
ブザンソンの Ibis の部屋の広さは半分。3畳間くらいのシングルである。(これで一泊155ユーロ、約20000円。ブザンソンのホテルは一泊58ユーロ、約8000円である)。
さすがパリは諸式が高い。
荷物を広げるスペースもないので、そのままパソコンを取り出して狭い机の上で仕事の続き。
そういえば前回のパリではホテルからほとんど出ない薄暗い部屋の中でひたすらレヴィナスの『困難な自由』の翻訳をしていたのであった。
仕事が一区切りついたので、シャワーを浴びて軽く昼寝。
夕方になってざんざん雨が降ってきた。
雨の中メトロで Quatre Septembre まで移動して、いつものようにリュ・サンタンヌの「ひぐま」の味噌ラーメンと餃子とハイネケン。
学生6名もご同行でみなさん塩ラーメン、キムチラーメン、ねぎラーメンなどを無言でむさぼる。
麺を汁ともどもに「ずずずずず」と啜り上げるこの切迫した感覚というのは、なかなかスパゲッティをもっては代替できない。
メニューには他に「カツ丼」「カツカレー」などもあるが、結局いつも味噌ラーメンを毎日食べに通うことになるのはなぜであろうか。
別に美味いラーメンではない。日本のラーメン屋で出されたら、ちょっといかがなものかというような味なのであるが、どうにもその「ずずず」感の誘惑に抗しきれないのである。
学生諸君のリクエストで、トロカデロまでエッフェル塔のイリュミネーション点灯の瞬間を見に行く。
Palai Royal の駅で切符を買おうと思うが窓口が閉まっていて、自動券売機しかない。しかたなく、はじめて券売機を使用する。
マウスを使ってまず購入するチケットの種類を指定してクリック。ついで枚数をクリック。「レシート要らない」をクリック。それから10.5ユーロを硬貨で投入という段取りである。
ディスプレイの下にあるころころ動くものがマウスで、両側のボタンがクリックボタンであるということを理解するとやり方はのみこめるのだが、「マウス」という概念を知らないクライアントにとってはほとんどカフカ的不条理のマシンであろう。
利用者のコンピュータ・リテラシーということをぜんぜん顧慮していない。
乗客の90%はカルネ(10枚綴り)を購入するのであるから、自動販売機と同じような「カルネ券売機」を置いて、紙幣でも硬貨でも買えるようにしておけば、ほとんどの業務はそれで済むと思うのであるが、どうしてわざわざこんな面倒な仕掛けをつくるのであろう。理解に苦しむ。
それだけ複雑な仕掛けなのに、紙幣は使えないのである。
私がディスプレイのフランス語を解読しながらなんとか「貨幣を投入してください」までたどりついたら、手持ちの硬貨が足りないことに気がついた。学生さんに借りてことなきを得たが、一人だったら、後ろに人を待たせておいて、おたおたと機械を操作した果てに、切符も買えずに終わるところだった。
「ユーザー・フレンドリー」というのはフランスの客商売に致命的に欠けているものである。
もちろんフレンドリーな商売人もいるが、彼ら、彼女らは「フレンドリーに接する相手」(要するに「VIP待遇」ということですね)を先方のそろばん勘定で「選んでいる」のである。
私はそういうものを「ユーザー・フレンドリー」とは呼ぶことができない。
トロカデロに駆けつけるが、一歩遅くてイリュミネーション点灯の瞬間には間に合わなかった。しかたがなくカフェでキールなどを喫しつつ次の点灯時間まで待つ。
10時のイリュミネーション点灯を拝見して、またまた暑苦しいメトロでサンミシェルに戻る。

9月10日
ブザンソン最終日。
学生諸君の授業は今日で終わり。無事みなさん certificat をいただいてフランス語の単位を獲得したわけである。
これまでのところ、病人もけが人もなく、事故も盗難もなく、無事に過ごしてきた。あと3日をやりすごして、飛行機に乗せてしまえば、私の仕事はおしまいである。
朝起きてとりあえず荷造りをする。
いつのもように、今回も「もうこれは捨てよう」と思った服だけを戸棚から選び出して持ってきた。これだと旅をしながら気楽に汚れ物をどんどん捨てられる。どうしても滞在中に荷物が増えるので、服を捨てて帳尻を合わせるのである。
汚れた綿シャツやらパンツやら靴下やらをどんどんゴミ箱に捨ててゆく。
旅にはぼろ服。これは海外旅行の基本である。
襟のすりきれたぼろシャツを着て、フランス語の新聞を小脇にかかえてのたのた歩いていると、「ビンボーな東洋系移民」だと思われて、日本人観光客ねらいのスリや置き引きや物売りの標的になる確率も少ない。
経験的にそのことが熟知されているので、今回のスタージュの学生諸君にも事前の説明会で「旅行にはできるだけビンボくさい服装で来るように」と言い含めておいた。
関空で学生諸君にお会いしたときに、にっこりと「やあ、みんなぼくの言ったとおりに・・・」と言いかけて失敗に気がついた。あやうく学生全員を敵に回すところであった。剣呑剣呑。
原稿仕事のあと、ブルーノくんとの最後の稽古にガルシエ道場へでかける。
7時半までみっちり2時間半。呼吸法、体捌き、呼吸投げ、二教、小手返し。それから杖の基本動作。著杖、水月、引提ゲ、斜面、四種の型をおさらい。
やはり呼吸法と体捌きがいちばん重要だということがよくわかった。
抑えたり、固めたり、極めたり、投げたりということは腕力さえあれば、誰にでも「それらしいこと」はできる。
しかし、それでは「術」にはならない。
立っていれば術になり、一歩動けば術になるということを目標にして稽古するのと、相手を捕まえて、それをどうこうするということを目標にして稽古するのでは、稽古の目的が違う。どちらがいいとかどちらが効果的であるかということではなく、めざすところが違う。
ブルーノくんには最後に私が多田先生と光岡先生から学んだ次のことばを贈った。

Le but du l’exercice de Budo est d’être au moment juste, à l’endroit juste et de la maniére juste.
武道修行の目的は正しい時、正しい場所に、正しい仕方で存在することである。

術技の本質もまたこの定義に尽きるのである。
ブルーノくん相手のお稽古も、計7日間、20時間ほどやったことになる。いつもだと夏休み中はほとんど稽古らしい稽古ができないのだけれど、今回は毎晩、美味しいビールと夕食を愉しむことができた。
まことに持つべきものは道友である。
ブルーノくんには来週の合宿のときの昇段審査の入段者と併せて、推薦で初段を進呈する予定である。とびとびとはいいながら、もう9年もお稽古されているのであるから、初段は順当なところである。
道場の使用を快く許してくださったエルヴェとイワンのガルシエ兄弟にもお礼をしなくてはならない。
まことにおおおらかでサンパティックなブザンソンの武道家たちでありました。Merci mille fois!
稽古後、今回よく通ったレストラン Au Feu Vert でご飯。
私はエスカルゴと鶏肉のエスカロップ。
学生諸君はブザンソン名物のポテトとチーズとマルトー・ソーセージのグラタンがたいへん気に入ったようである。(私も結局3回食べた)。
ドゥー河の河岸をそろそろ肌寒くなってきた夜風に吹かれて、ブザンソン最後の夜景をめでつつ、蹌踉と帰る。

9月9日
ブザンソン滞在もあと二日となった。
寝て、食って、合気道を稽古して、原稿を書くだけの、実にシンプルな生活であった。
おかげで新書の原稿150枚が書き上がった。
この研修付き添いは、業務であるからわずかながら「日当」というものが付いている。
「日当」を頂いておいて、昼寝と稽古と原稿書きで一日が終わるのでは、なんだか申し訳ないような気もする。
明日は最終日であるから、とりあえずCLAにご挨拶にうかがって、「あ、どうも、お世話になりました」くらいのことは言わねばならぬ。
どうしたわけか、滞仏の日時が長引くにつれてフランス語を話すのが億劫になってきた。
最初は、ひさしぶりのフランス語でちょっとわくわくしたりもしたのであるが、考えてみれば、一通り仁義を切ってしまうと、ご当地のみなさんとそれ以上とくに膝を交えてご懇談したいような用事があるわけでもない。
合気道の指導やビジネストークは会話の目的がはっきりしているから、まだしも楽なのであるが、社交的なご挨拶のようなもの(どうでもいいようなことを「そうですねえ」と適当な相づちをうちながら、ふんふんと聞き流す会話)はだんだん面倒になる。
しだいに横着になってきて、ふだん日本語をしゃべるときと同じピッチと声質でフランス語を話そうとしはじめるからである。
そうなってわかったのは、私は日本語でどうでもいいことをしゃべっているときには、ほとんど選択的に「皮肉なこと」ばかり言っている人間だったということである。
だいたいいつも「へん」とか「なーんてね」とか「たく、ざけんじゃないよね」というようなフレームワークの中でしゃべっている。
つまり、口にするフレーズがどういうコンテクストで語られているかを指示する「メタ・メッセージ」の記号操作がやたらに多いのである。
「私が思いますには、これこれはこれこれであります」というようなプレーンなメッセージを私はふだんのおしゃべりではほとんど口にしない。
「そういう人間」なのであるということを今般思い知った。
フランス語だとこの「メタ・メッセージ」でメッセージの解読仕方を指示するということがうまくゆかない。メッセージの作成自体に手間暇がかかるから(頭で作文してからそれを読み上げるのだから時間がかかるのはしかたがない)、それを「鼻先で言う」とか「含み笑いしながら言う」とか「誰かの口まねをしながら言う」というようなイヤミな「装飾的操作」をしている余裕がないのである。
そうなると、ふだんみなさんが聞き慣れている「ウチダ的捨てぜりふ」というものの成立がはなはだ困難となる。
そのせいか、フランス語で話したあとには、なんとなく「物言わぬは腹ふくるるわざ」感がつきまとう。
あれこれと試みた結果、『燃えよドラゴン』でブルース・リーがイギリス人相手にしゃべっていた英語のピッチが、私にとってはいちばんフランス語を言いやすいということを発見した。
あるいはジャン=ポール・ベルモンドの『カトマンズの男』で彼の遺言を受け付けた中国人紳士のフランス語の話し方と言ってもよろしいのだが、これは映画を見ている人があまりいないであろうから例として適切ではないかもしれない。
要するに、「ゆっくりかみしめるように話す」のである。
これだと相手の母国語で話しているにもかかわらず、相手に対して精神的優位に立つことができるのである(なんだか私はフランスにいるあいだ、「優位」になることばかり考えているようである)。
私とて伊達に長年フランス語教師をしているわけではない。
時間さえいただければ、接続法や条件法を駆使した長文のフランス語を起案するにやぶさかではないのである。
ただ、日常の立ち話ではそれだけの時間の余裕をいただけないし、辞書を引くことが許してもらえないので、ついへどもどしてしまうのである。
しかるに、遠くを見つめながら、ことばをひとつひとつ選びつつ語る「いかにも東洋人的なフランス語発声法」で話すと、単語がわからなくて「えーっと、『管』てなんていうんだっけ?」と頭の中で単語帳をめくっているときも、ひととき俗世を離れて非常に深い思弁に耽っているように見えるのである。
ただ、この手はフランスの知的男性にはたいへん効果的であるが、フランス人女性が相手の場合は、知的であると非知的であるとを問わず、この手は使えない。
彼女たちは彼女たちの発する質問に二秒以内で回答できないようなものを人間としては扱ってくれないのである。

9月8日
なんだか眠ってばかりいる。
9時半まで眠って、いくらなんでもお天道さまに申し訳がないのでのたのた起き出して、熱いシャワーを浴びて、モノプリで購入した「ウインナ・コーヒーの素」を飲んで、モノプリで購入した「チョコ・クロワッサン」を食べる。
仕事。
どうも眠くて調子が出ないので、街へ出て、水とリンゴとチョコパンを買う。
チョコパンなんて、あんまり好きじゃないのだけれど、「あんこ」に一番近い食物というとこれしかない。
私は仕事をしながらコーヒーをがぶがぶ飲み、おやつに「あんこもの」を食べて脳細胞に刺戟を与えるという方法を採用しているのであるが、フランスでは残念ながら大福とかどら焼きとか、そういう非合法ドラッグが手に入らないので、やむなく「チョコもの」を以て代用に供しているのである。
買い物後、河原で昼寝。
日が中天に高くなって、とても耐えきれなくなったので、のろのろと起きあがり昼寝を継続すべくホテルに戻る。
部屋はまだお掃除が終わっていない。
ホテル暮らしの困ったところは、部屋のお掃除時間が一定しないことである。
時間が決まっていれば、その時間だけ部屋を空けておけばよく、あとは一日昼寝をしても誰にも咎められないのである。しかし、朝の9時にノックされるときもあり、夕方の4時にノックされるときもあり、部屋の掃除がいつ来るかわからない。
いつ来るかとどきどきしていると、のんびり昼寝もできない。
別に昼寝をして悪いわけでもないのであるが、昼寝をしていると、ドアを開けたお掃除おばさんが「おお、パルドン」とドアを閉めて立ち去って、掃除をしてくれないのである。
あわててベッドから飛び起きて「汝が部屋の掃除をすることによって、吾人はいささかの困惑も覚えることがないであろう」とへどもどとフランス語で言わなければならないのが億劫だ。
これが仕事中にドアがノックされたのであれば、えらそうに「入室を許可す。ただちに部屋の掃除をなされるように。吾人は仕事を継続するにやぶさかではない」というようなことをお掃除おばさんに背を向けたままつぶやけばよろしいのであって、精神的優位を維持できるというか、まああまりじたばたせずに済む。
というわけなので、廊下の遠くに掃除機の音がきこえると、昼寝をやめて、のろのろ起き出し、ドアをノックするまで机に向かって半睡状態で仕事をするふりをしていないといけない。
これが面倒である。
今日は1時半ごろに廊下の向こうで掃除機の音がしたので、昼寝を断念して、半睡状態で仕事のふりをするという苦行に取りかかったのであるが、なかなか来ない。
結局掃除のおばさんが登場したのが3時半。
あまり人を待たせるものではないよ。
しかし、不思議なもので、おばさんががんがん掃除機をかけたり、浴室や便器をじゃかじゃか掃除したり、どすんばたんとベッドメイクをしている横にいると、急激に眠気が去って、仕事に没入できるのである。
これはいったいどういうメカニズムによるのであろうか。
本日も15分ほどおばさん方がおしゃべりをしながらベッドメイクをしている横で、いきなり「アカデミック・ハイ」状態に入る。
そのまま4時45分まで一気に十数枚の原稿を書き上げる。

いつもの時間にブルーノくんが登場。
サントル・ガルシエへ。
イワンくんの少年部柔道のクラスの横でブルーノくんと、本日から参加のジルくん(先日アルボワへのデギュスタシオン・ドライブに同行してくれたブルーノくんの友人のインテリア・デザイナー)と合気道のお稽古をする。
初心者がまじったので、また気の錬磨の基本動作から。
ジルくんは昨日の稽古を見学して、合気道に興味が湧いたということである。
なかなか飲み込みがよろしい。
初心者にこんなことをやらせてよいのかしらと思いながら、けっこう面倒くさいことをやらせる。
ふたりとも必死になって体捌きをやっている。
投げたり抑えたり極めたりというのは、二人とも経験があるのですぐにそれらしいことができるのだが、足捌きが少し複雑になるとなかなかできない。
多田先生の研修会ではいつも体捌きに時間をかけるので、どうしてなのかしらと不思議に思っていたが、たぶんこれが初心者にはいちばんむずかしいのである。
形稽古というのは、決められた時点、決められた空間的位置に、決められた仕方で入るという身体運用の「精密さ」が要求されるのであるが、スポーツ化した武道だけを経験していると、なかなかそういうことの重要性がわからない。
2時間ほど体捌き中心の稽古をしてから、ブルーノくんを相手にして杖道の4本目までをおさらいする。
杖や剣というのは、便利な道具であるのではなく、動きを制約する不自由なものである。そういう制約があってもなくても同じようにするすると身体が動くようにするために、いわば負の条件づけとして武器は存在するのであるという説明をする。
ブルーノくんは滝のような汗をかきながら、はいはいとうなずきなあら、必死に杖を操る。
まことによい生徒である。
シャワーで汗を流してから、今夜は Le Coucou へ。
例によってフランシュ=コントワの芋&チーズ&ソーセージ料理。
食事のあと、お誘いに応じてジルくんのお宅を訪ねて、奥様をまじえて軽く食後酒をいただく。
美味しいブランデーを啜っているうちに眠くなったので早々に辞去してホテルに戻る。
ぐー。

9月7日
なんだか眠ってばかりいる。ゆうべは11時に就寝して、目が覚めたら9時半だった。10時間半寝ていたことになる。
どうしてこんなによく眠れるのであろう。
まだまだ眠れるのだが、いくらなんでも朝から課業に励んでいらっしゃる学生さんたちを監督する立場にあるものが昼まで寝ているというのは申し訳がないので、のろのろと起きあがる。
昨日も一日ほとんど寝ていたような気がする。
昼頃に Monoprix に買い出しに出かけてフルーツと水を買い、日陰で新聞を読んでいたら、Y川、I達組とゆきあったので、いっしょに Megavand の Resto U へ行く。
聞けばホテルの脇の Resto U は昨日から閉鎖されているそうである。
日本だったら、「申し訳ありませんが、この食堂は来週は営業しておりません。代替の食堂はどこどこですから、そちらへお回り下さい」とちゃんと事前のアナウンスがくどいほどあるのがふつうである。
そういうゆきとどいた国から来ると、フランスという国はいささか不親切に思える。
ただ、この不親切も「人の好きにさせておく」という点では快適に感じられもする。
日本だと、半袖のシーズンから長袖のシーズンへの切り替わりというのは、ほとんど制度化されている。
こちらだと、9月に半袖短パンゴム草履の人もいれば、とっくりセーターに革ジャンという人もいる。そういうことは本人の好きずきで、勝手にしてよろしいということになっている。
別に日本だって、勝手にしてよいのだが、やはり「みんなと同じものを着た方がいいんじゃないすか」という無言の「圧力」を感じずにはいられない。
思えば、日本社会における「親切」というのは、「みんなと同じことをさせる」という方向へやんわりと押し出すような機能を果たしているのかもしれない。
居酒屋だと「本日のおすすめメニュー」というのがある。店員はだいたい「あれを注文しろ」とわりと強めに勧奨してくるが、親切なのか、「同じものを作る方が手間がいらない」という先方の都合にこちらが合わせられているのか、考えるとよくわからない。
そんなことを考えながら部屋に戻って、泉鏡花を読みつつ昼寝(なぜか泉鏡花を読むと不意に睡魔に襲われる)。
これではいけないと午後3時ごろに起き出して、お仕事。
例によって書きすぎてしまい、もう予定の枚数は過ぎてしまったのだが、まだ本題に入れない。
どうして私の書くものはこのように脱線に脱線を重ねてしまうのであろう。ここまでのところは教育論ではなく、ほとんどがコミュニケーションと文学の話。ここからどうやって教育論につなげたらよろしいのであろうか。
だいたい、もう枚数が超過しちゃってるんだし。
困った困ったといっているところにブルーノくんがお迎えに来て、今日も愉しい合気道のお稽古。
今回は集中講習ということで、全6日間。
先週ブルーノくんが帰省して来てから、週末を除いて毎日である。
最初は私もひさしぶりのお稽古なので、節々が痛んだが、さすがに四日目となると全身の関節に油が回ったらしく、動きもスムーズになる。
呼吸法と気の錬磨を中心とした柔らかい稽古をする。
こちらの武道は、私の見聞する範囲では、こう言っては申し訳ないが、やはり「筋肉主義」的なところがあって、「術の工夫」とか「技の理合」ということを理論的に詰めてゆくということをされている方は少ない。
特に技の「精密さ」をあまり重視されないようである。
技というのは、ある時間、ある空間的な点に、ある身体部位のポイントが「それ以外にはありえない仕方で」存在することで成立する。
筋肉主義的な武道も、もちろんそのことはわかっておられるのだが、
ほかならぬその時、その場所に導くために「腕力」に頼る傾向がある。
理由はそれが「スポーツ」だからである。
スポーツというのは、制限時間があり、勝敗をその間に決しなければならない。
試合時間内に技をかける機会がなければ、勝負にならない。
でも、武道は本来「制限時間」とか「教育的指導」とかいうものの存立しない状況を生き延びる技法である。
相手がかかってこなければ、そのままじっと待っていてもよいし、「では、失礼」と立ち去っても構わない。
だいたい、「相手がかかってくる」という状況にできるだけ巻き込まれないための心身の感受性の錬磨そのものが術技の向上とリンクしているというところが武道の合理性なのである。
「あの人とかかわると面倒なことになる」という身体信号をいちはやく感知して、さっさと大回りして別の道から帰ることのできる身体感受性の錬磨が、そのまま術を遣うときの精密な身体運用の訓練になっている。
日露戦争の海軍司令官であった東郷平八郎は逸話の多い人だが、予備役に退いていた東郷が現役に呼び戻された理由は東郷元帥に赫々たる武勲があったためではなく「東郷という人間は、やたらに運がよい」という評判があったためだと司馬遼太郎がどこかに書いていた。
はためには「運がよい」と見えたのかもしれないが、味方が最強の備えをしているときに、たまたま「穴がある」状態の敵軍に繰り返し遭遇するというのは、運というよりは感覚の手柄だろう。
東郷元帥には徒歩で通行しているとき、前方に馬がいたので、道の反対側にまわってそれを避けたという逸話もある。
これを見たひとが「武人のくせに、荷馬ごときを恐れるとは」と笑ったそうであるが、東郷は「どんなおとなしい馬でも、何かのはずみで狂奔して人を傷つけることがあるやもしれない。道を迂回すれば、そのわずかな機会に遭遇しても無事を保てる。荷馬に蹴られてつとめに支障が出ることこそ武人の恥である」とすましていたそうである。
多田先生はよく「むかしの武士は用のないところにはでかけなかった」と諭される。
私はそれを聞いてすっかり得心して、爾来、家からなるべく出ないようにしている。出るときも東郷元帥の故事に学んで、できるだけ危険のなさそうなところを拾い歩いている。
どうしてフランスまで来て、観光も買い物もしないで、ホテルの部屋で文庫本なんか読んでるんですか?と学生たちは訝しむが、これは武人のたしなみなのである、もって諒とされよ。

9月6日
なんだか眠ってばかりいる。日曜は10時に床に就いて、目が覚めたら9時だった。
昼間も暇さえあれば、ごろごろ寝ている。公園のベンチで眠り、ベッドで眠り、川岸の草の上で眠る。
ここでの生活は「食っちゃ寝&合気道」であるから、それがストレスフルであるということはありえないので、あるいは長年の疲れがどっと出てきて、ここを先途と惰眠をむさぼる体制に入っているのかもしれない。
最初の数日は午前6時半頃に目が覚めて、夜明け前の空を見上げながら、こりこりと原稿を書いていたのであるが、このところ午前8時の定時訪問(学生さんが登校前にご挨拶に寄るのである)まで爆睡している。そのあともいぎたなくまた寝床に戻って、さらに眠っている。
疲れが出る理由の一つは「アミノ酸の不足」である。
私たちは必須アミノ酸の一部をそれぞれの民族料理固有の発酵食品から摂取している。
日本人の場合だと、味噌、醤油、納豆、漬け物などに依存している。
これが長期的に欠如すると、急激に「生きる意欲」が失われるのである。
フランスにもソウルフードの代替食品がないことはないのであるが、私のような毎朝「白いご飯と味噌汁と納豆、生卵に漬け物」という伝統的な和食派の根源的な飢餓感は満たすことがなかなかに困難である。
だから、ブザンソンにいても、ついつい足はアジア料理に向いてしまう。
カンボジア料理の金蓮亭では、「ラーメンに似たもの」と「エビ焼きそばに似たもの」と「餃子に似たもの」を、冷えた青島ビールを飲み下しつつ、魚醤にて食することができる。
パリでも「ひぐま」の味噌ラーメンを食することなく旬日を過ごすことはできない。
ブザンソンはたいへんご飯が美味しくて、その点で何の文句もないのであるが、もしこれに加えて「うどん屋」(「きつねうどん」と「かやくご飯」)と、「カレー屋」(カツカレー辛口)と、「ラーメン屋」(チャーシュー麺ネギ大盛り)が存在すれば、ご飯的にはパーフェクトと申し上げてよいかと思う。
そんなこと書いたら、はやく日本に帰りたくなってしまった。
帰心矢のごとしといっても、要するにいつものご飯が食べたいということなのである。口いやしくて恥ずかしい。
日本からさかんにファックスやら電話やらが来る。
校正が二件、取材申し込みが一件。
なにもフランスまで国際電話で帰国後の話をしなくても・・・と思うのであるが、先方には先方のご事情というのがおありになるのであろう。
レンタル携帯の着信音は「ちゃーちゃらっちゃ、ちゃちゃちゃ」という聴くだけで脱力する間の抜けたメロディなので、それが鳴ると、へろっと腰が砕ける。

9月5日
ブザンソンは快晴。
あまりに天気がよいので、仕事の手を止めて、ばりばりと洗濯をする。ジーンズも浴室で「足踏み洗い」をする。
洗濯機で洗うよりも、ホテルの備え付けの石けんでこしこし手洗いする方が、仕上がりはきれいである。
干すところがないので、窓枠にハンガーをひっかけて干す。
向かいのビル(Caisse d’Epargne という「毛ガニ」としか読めない社章を持つ銀行。これは見たことのない人には想像しにくいであろう)は週末無人なので、気にせずパンツなどを窓辺に干す。
洗濯を終えると、なんだか眠くなってきたので、泉鏡花を読みながら昼寝。
今回の旅行に所持してきたのは、ブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』(これはちょうど出発前に読みさしだったので)、あとは太宰治の『御伽草子』と『人間失格』。泉鏡花『外科室・海城発電』、中江兆民評論集、森鴎外評論集、福沢諭吉『文明論之概略』。出発間際に本棚の「近代日本コーナー」の岩波文庫をわしずかみにして放り込んだのである。
去年、ハワイには志ん生がよく似合うということを発見した(トーマス・マンの『魔の山』も持って行ったのだが、これはぜんぜんハワイ向きではなかった)。
ブザンソンには太宰治がよく似合う。
日本にいると、太宰の小説の主人公たちのグータラぶりにちょっといらつくこともあるが、ブザンソンは東京のおそらく3倍くらいのんびり時間が流れるので、遊蕩話にはちょうど頃合いである。
昼寝を終えて、また仕事。
ブルーノくんとヨシエさんが遊びに来たので、猛暑の中、いっしょにブザンソン近隣の名所めぐり。
Saline Royale というのがこのへんの名所で、王立製塩所というふしぎな建物がユネスコの世界遺産 (patrimoine mondial) に認定されている。Le Doux という18世紀の「未来派」建築家の作品で、なかなかモダンである。
フランス人は建築とガジェットについては、ほんとうに「新しもの好き」である。
私たちが止宿している Hotel Ibis もお隣のCLAも、同じ「La City」という名のハイパーモダンなる建築群を構成しているのだが、まことに異様というか奇怪なる外見である。
そのほか日本では見たことがないような不思議な発明品がさまざまな商売で利用されている。
いちばんわかりにくいのは地下鉄の自動券売機で、フランス人も使い方がわからないので、職員が横に立って自動券売機の使い方の指導に当たっているそうである。それなら窓口で売った方が早いだろう。
製塩所では岩塩から塩を精製するプロセスについて、ガイドから詳細なご案内をうかがう。そんなことを知ってもあまり他に生かす道のない情報である。
ここに製塩所があるということは、ジュラ地方は岩塩の産地なのである。すぐ近くに Salin(塩田)という名前の温泉地があるので、立ち寄ってみる。ジュラ山脈の谷間。湯河原温泉の建物をスイス風にした感じを想像するとわりと近いかも。
続いて La Source du Lison(リザン川源泉)というところに立ち寄る。前にも一度来たことがある(ような気がする)。
ジュラ山脈の石灰質の洞窟からじゃんじゃん水が流れている。この地方は土地が石灰質なので、カルシウムを含んで水が白濁している。
流れにえぐられた深い谷底なので、日が差さないので、肌寒い。
美しい川沿いの道を疾走して、ブザンソンに戻る。
ホテルの前でお別れして、熱いシャワーを浴びてから、学生たちとホテルのレストランで夕食。
ザウワークラウトを食べる。
ザウアークラウトはアルザス料理。フランス語では Choucroute(シュークルート)。塩漬けキャベツを白ワインで煮て、ソーセージ、ベーコン、ポテトなどを添えてばりばり食すものである。
このぐちゅぐちゅのキャベツがなんというか、「キャベツの古漬け」みたいな味がして、日本人の琴線に触れるのである。
これは野崎次郎くんの大好物で、ふたりでブザンソンに来たとき(95年の夏)よく缶詰を買って食べた。
おなかがいっぱいになったので、部屋で歯を磨きながらTVを見る。オーウェン・ウィルソンとジーン・ハックマンの出る戦争映画をやっている。
英語版なので、ぜんぜんわからない。
わずか10日ほどで、英語とフランス語の聴き取り能力が逆転してしまったらしい。

9月4日
ブザンソンに来て1週間。残り1週間である。
学生たちも金曜の午後はさすがにだいぶ疲れがたまってきたようで、Resto U から CLA に戻る足取りもなんとなく重げであった。
それでも全員なんとか一週目の全教程をクリアして、イタリアンレストラン Rosa Bianca のテラスに全員集まって、H谷川さんのバースデイを祝って、シャンペンで乾杯してからディナー。
一昨日はK室さんのバースデイを Lotus d’or でお祝いした。誕生日続きである。みなさん二十歳になられたのである。
今年のスタジエールたちはいまのところ友好的な関係をキープできている。
海外語学研修は少人数での、精神的ストレスの多い旅であるから、疲れがたまってくると、「地金」がでてくる。
利己的な言動がしだいにめだってくるし、不登校になるものもいるし、告げ口も来るし、泣きも入るし、イジメもある。
こういう旅は心身のタフネスが試される場である。
タフネスというと、ただ痛みに対して抵抗力があること(場合によっては外界からの刺戟に鈍感であること)というふうに勘違いする人がいるかもしれないけれど、そういうものではない。
タフネスというのは、「耐える力」ではなくて、むしろ「愉しむ力」である。
海外旅行で「耐える」ことが出てくるのは、日本での生活との違いを「違和」として感じるからである。システムが違うので、勝手がわからない。接する人間の対応がこちらの期待と違って困惑することもある。
そういうときに、「日本と違う」ということをネガティヴにとらえると、どんどん疲れがたまってくる。
「日本と違う」ことをおもしろがったり、不思議がったり、観察したり、その功利的活用法を研究しはじめると、文化や制度の差異は逆に尽きせぬ興味の源泉となる。
おもしろがれる人は、どんな状況に置かれても、愉しそうである。
もうひとつ海外旅行でのストレス耐性のおおきな要素は「ルーティン構築能力」である。
旅行中というのは、衣食住の全プロセスで頻繁に変化があり、そのつどいろいろな制約や条件が生じるものである。
そのとき、めまぐるしく変化する条件の下で、「暮らしのルーティン」をすぐにてきぱきと決めることのできる人と、なかなかできない人がいる。
就寝起床の時間、シャワーを使う順番、朝ご飯のメニュー、洗濯の段取り、買い出しの分担・・・そういう暮らしのルーティンをすぐに決めて、スケジュール通りに生活を始められる人と、あれもこれも「ふだん」と違うので、ぼおっとして、何をしてよいかわからなくなり、ひとに言われるままに右往左往して、主体的に一日の時間割が作れない人がいる。
自分で時間をコントロールしている人は、制約の中で利便性と快楽を最大化することにあれこれと工夫を凝らすようになる。それがうまくゆくと、なかなかの達成感がある。
映画には「捕虜収容所もの」というジャンルがある。『大脱走』とか『大いなる幻影』とか『第十七捕虜収容所』とか、歴史的名画が少なくない。
こういう映画を見ていると、捕虜収容所という制約の多い空間で、自分なりの生活のルーティンを決めて、規則正しく暮らしている人間がいちばんタフであることがわかる。
私もどこにいってもすぐに「自分のルーティン」を決めてしまう人間である。毎日同じことをしていると、いちばん能率が上がるので、毎日同じことをしている。
起きて、シャワーを浴びて、果物を食べて、みそ汁を飲んで、仕事をして、カフェテリアでカフェオレを飲んで、川沿いを散歩して、Monoprix 買い物をして、『リベラシオン』を買って、Resto U で新聞を読みながらご飯を食べて、中庭で本を読んで、ホテルに帰って昼寝して、シャワーを浴びてから仕事の続きをして、夕方になったら稽古のある日は合気道の稽古に出かけて、稽古のあとにビールを飲んで、ご飯を食べて、シャワーを浴びて、歯を磨きながらTVを見て、ワインを少し飲んで、ぐー。
こんな判で押したような生活をしているせいで、ちくま新書の原稿半分以上終わってしまった。
この仕事がブザンソンにいるあいだに終わってしまうと、パリにいる間にすることがなくなってしまう。困ったなあ。

9月3日
CLAのディレクターと「ヨコ飯」。
私はブザンソンで原稿を書いているばかりではなく、ちゃんと研修生の付き添いとしてのお仕事も果たしているのである。
ディレクターは着任したばかりの精力的な男性。
トリノとサンパウロの Alliance Française でフランス文化の普及活動を8年したあとに、ブザンソンにポストがあったので、帰国したという話であった。
その彼に招待されて、昼食を食べながら、フランスと日本におけるフランス語履修状況について情報交換をする。
やはり、フランス語話者人口の全世界的な減少(それはイコール、英語の世界制覇ということを意味している)の傾向にかなりの不満と不安を抱いておられた。
その点では、私も同意見であるので、ふたりで「困ったね」とうなずきあう。
その後、イラクにおける人質事件や、新学期のリセでのイスラム教徒女性のスカーフ着用問題から始まって、日仏両国における「民族問題」について意見交換。
ディレクターはもともと外務省のお役人であるから、「公式的発言」は「政治的に正しい」ことしか言われないが、その後に必ず声をひそめて「というのは、表向きで、実は・・・」とフランス人の本音を教えてくれる。
こんなふうに鮮やかに二枚舌をきっちり使い分けるところがいかにも「ヨーロッパ人」である。
夕方からブルーノくんとサントル・ガルシエで合気道のお稽古。
三年ぶりである。
エルヴェとイワンのガルシエ兄弟とご挨拶。
ブルーノくんを相手に、基本の体捌きと、基本技を数種類お稽古。最後に杖の型をひとつ教える。
ふだんは何もしないで、教えているだけなので、二時間技をかけたり受け身をとったりするのは久しぶりのこと。
それに8月21日以来まったく身体を動かしていなかったので、節々が「油ぎれ」できしんでいる。
それでも二時間稽古をしたら、だいぶ油が回ってきて、だんだん動きがよくなる。
夜のクラスの生徒たちがやってきたので、稽古を切り上げて、街へ戻る。
Granvelle のカフェでビールの「大ジョッキ」をくくくと飲み干す。
それからイワンくんをまじえて10時半までずっと武道談義。
昼間の多弁なる「ヨコ飯」の反動か、ビールを飲んだ後、まるでフランス語が出なくなる。
しかたがないので、ひたすらにこにこ聞き役に徹して、ときどき「ほうほう」とか「まさか」とか「なるほど」とか言うだけ。
どうやら私の場合、一日に使えるフランス語「脳」のキャパに限界があるようだ。

9月2日
旅先で旧友の訃報に接する。
大学からファックスが届いて、竹信悦夫くんが旅行先のマレーシアで心臓麻痺で客死したという。
高橋源一郎さんから今日の午後(日本時間)に連絡があったそうである。
大学からは早朝から私の携帯に連絡を入れていたらしい。
たしかに、早朝二度電話が鳴った。でも、応答しても変なビープ音しかしないので、誤作動だろうと思って、そのまま切ってしまったのである。
CLAの校長先生とホテルのレストランで「ヨコ飯」をしたあとで、ちょっとぐったりしているところをレセプションに呼び止められて、ファックスを渡された。
マレーシアで心臓麻痺という以上のことが分からない。
とりあえず高橋さんの携帯に電話をするが通じない。
日本の友人たちに電話をかけてみる。コニカの澤田くんがつかまったので、彼にニュースの確認と他の友人たちへの連絡をお願いする。
こういうときに海外にいるというのは、まことに不便なものである。
二時間ほどしてもう一度電話をしてみる。
伊藤くんが朝日新聞に確認してくれて、マレーシアに奥さんと旅行中、海水浴のときに心臓麻痺で急死したということまでわかった。
そこまでしかわからない。
竹信くんとは1970年以来、34年のおつきあいである。
ちょうど30年前の夏、74年にパリでふたりで十日ほどごろごろしていたことがあった。
貧乏卒業旅行だったので、オデオンの裏の星なしホテル、Hôtel de la Vigne の六階だか七階だかの屋根裏部屋に逼塞していた。
金はなかったけれど、私は最初の海外旅行で、なんだかやたらに高揚していて、何を見てもおかしくて、笑ってばかりいた。
「煮込み定食ご飯大盛り」とか「私はパリに嫉妬する」とかいうそのときの思い出のフレーズをしつこく蒸し返しては、その後30年間ふたりで笑い続けていたけれど、もうその「笑いネタ」の起源を覚えている相方がいなくなってしまった。
先週パリに着いた翌日に、なんだか懐かしくなって、往時ふたりが盤踞していた Rue de la Vigne を訪れ、いまでは三つ星ホテルに出世したかつてのぼろ宿をデジカメに収めた。帰ったらホームページに載せて、竹信くんにも見てもらおうと思ったのだけれど、それもかなわぬこととなった。
「蛍雪友の会」のメンバーはこれで96年暮れに夭逝した久保山裕司くんに続いて二人目の物故者である。
久保山くんの葬儀のときは、私は二度目の性悪な不眠症のさなかで、通夜葬儀の二日間ほとんど寝ていなかった。ずっと頭がぼうっとして寒気がして、哀しいのと苦しいのがいっしょで、ほんとうにつらい葬儀だった。
その通夜の帰りに中野あたりの居酒屋で、私が寝られなくてつらいとこぼしたときに、竹信くんがさかんに励ましてくれたのを思い出す。
ウチダは話をまとめようとするからいけない。オープンエンドがいいんだよ、ということを何度も繰り返していた。
そのことばがずっと心に残っている。
そうか、「オープンエンド」か。
そのことばをそのあとも自分に向けて何度も繰り返し、それから学生たちにも何度も教えた。
竹信くんは私のいささか神経症的な趣のあったライフスタイルに、気分のいい解放感をもたらしてくれた人であった。
『寝ながら学べる・・・』というのも30年前に久品仏の私の下宿で、竹信くんがこたつの中でぽろりと口にしたコピーをそのままお借りしたのである。
二年前の夏に、彼がコメンテイターをしている「朝日ニュースター」という番組に呼ばれて、『「おじさん」的思考』と『寝ながら学べる構造主義』の紹介をしてもらった。
そのときに、「このタイトル、30年前に竹信くんにもらったものなんで、この場を借りてお礼申し上げます」という話から始めてふたりで15分ほどおしゃべりをした。
それが彼と会った最後になった。
そのあと、去年高橋源一郎さんと知り合ってから、ふたりでずいぶん竹信くんの噂話をしたので、なんだか最近何度も会ったような気がしていたけれど、実際には、しばらく顔を見ないうちに、急に逝ってしまったのである。
もうあの笑い声を聞くことができない。
合掌。
--------