旅行代理店哀話

2004-08-20 vendredi

ぼやぼやしているうちにフランス行きの日が近づいてきた。
ブルーノくんと連絡が取れたので、パリで何かあってもすぐに現役警察官が飛んできてくれる危機管理体制が整ったし、ブザンソンでの遊び相手もみつかったので、ほっとしている。
外国旅行は現地に信頼できる友人知人がいると安心度がずいぶん違う。
現地の人じゃないとわからない「システム」があって、これにいきなり直面するとカフカの「城」的な不条理のうちに陥る。
外国に行って困惑するのは、ことばが通じないというより、おもにシステム(というか「ゲームのルール」)がわからないせいである。
それは日本にいても同じである。
自動券売機や自動改札のシステムがわからない人は、誰かに手取り足取り教えてもらわない限り、たぶん永遠に電車に乗ることができない。
私ははじめて神戸に来たとき、新開地にホテルを取ったことがある(どうしてそんなところにホテルを取ったのか、よく理由がわからない。たぶん地名から推してそこが神戸の中心だと思ったのであろう)。
そのとき三宮から新開地まで阪急で来たので、また三宮に戻ろうと思って、同じ線の反対側ホームから電車に乗ったら、知らない駅(元町)について、「おお、ここはミステリーゾーンか」と恐怖したことがある(阪神に乗ってしまったのである)
考えてみれば、自由が丘駅からだって東横線に乗れば渋谷に着き、日比谷線に乗れば北千住まで行ってしまう。
住んでいるときは、そんな「ルール」があると意識したことさえなかったが、「ルール」を知らない人がぼんやり電車に乗り込んでしまい、ふと目を上げたときに、まるで違う景色を見たときの不安はなかなか筆舌に尽くしがたいのである。
外国旅行において味わう不安の多くはそれに類するものである。
クアラルンプールの空港でトランジットのときにトイレに入った。
う○ちをしてから、ふとあたりを見回すと紙がない。
紙が切れているのではなく、トイレットペーパーのホルダーそのものがしらじらとした壁面上に存在しないのである。
このときのパニックもかなり深刻なものであった。
飛行機の時間は迫ってくるし、あああどうしようと悩んでいるうちに、「水でじゃばじゃば洗う」という解決策に思い至った。
結果的に局部の衛生状態は確保されたのであるが、下着もジーンズもびちょ濡れになってしまった。
トイレに入ったら紙がない…というようなトラブルは日本にいても日常茶飯事であり、パニックになるほどではないのであるが(でもないか)、外国の空港でそういう目に遭うと、なんというか胃の腑がせり上がるような不条理感にとらえられるのである。
「な、なんでやー。ここは国際空港やろがー」
アメリカとか香港とかを旅行しても、あまり「パニック!」ということがないのは、システムが日本と同じであり、システムが不調になる仕方も、だいたい日本と同じだからである。
パニックというのは、単なる失調ではなく、その失調が何に起因しているのか、それが何を意味するのか「わからない」という事況に陥ることである。
フランスはもう9度目なので、「なんじゃ、これは!」というようなことはあまりなくなったが、それでも「先方のルール」がわからないでへどもどすることが多い。
今度の旅行ではどのようなパニックに遭遇するのか、考えるとどきどきしてくる。
でも、こういうどきどき感は海外旅行ならではのものであるから、これもまあ一興である。
今回はブザンソンに語学研修の付き添いでゆくのであるが、そのブザンソンの宿泊先が予約されていなかったことが昨夕発覚した。
旅行代理店のミスである。
出発の6日前に困ったものであるが、こういうトラブルは海外旅行ではほとんどまぬかれることのできぬものであるので、しかたがない。
私はよく学生に、「結婚するかどうか決断しねている相手がいたら、いっしょに海外旅行をすればよい」と忠告している。
海外旅行は必ずトラブルが起きるからである。
スーツケースがなくなる、ホテルが予約されていない、列車の席がダブルブッキングされている、パスポートがなくなる、財布が盗まれる、レストランでぼられる、生水を呑んで腹を下す、帰りの飛行機が飛ばない…などなど。
こういうときに、どうふるまうかで人間の「器」というものはよくわかる。
私が知る限り、ほとんどの人はこういう状況に追い込まれたときに、「誰の責任だ?」という他罰的な文型で問題を「処理」しようとする。
でも、こういう局面で「責任者」を探しても、そんなのまるで時間の無駄である。
「はい、私が責任者です。今回の件は私が悪うございました。すべて私が責任をもって後始末をぜんぶしますから、ごめんなさいね」
というような人間が「責任者出てこい!」と言ったらすぐに出てくるようなきっちりしたシステムであれば、そもそもこういうトラブルが起こるはずがない。
だから、海外でトラブルに巻き込まれたときは、「誰のせいだ?」というような後ろ向きな問いをいくら繰り返してもまるで時間の無駄なのである。
それより「この窮状からどう脱出するか?」という前向きの問いにシフトしないといけない。
この「他罰的問い」から「遂行的問い」へのシフトができるかできないかにリスクマネジメントの要諦はある。
人間の生存能力の高さは、このような局面において、どれほどすばやくかつ快活にこのシフトを果たせるかによって計測できる。
世に「成田離婚」というものがあるが、だからあれはわりと合理的な判断なのである。
旅行中に起きたトラブルに際して、「誰の責任だ」という問いを立てたがるカップルは最終的に
「だいたいキミがこんな代理店に頼むから…」とか
「そもそもこんなとこに来たいって言ったの、あんたの方じゃない!」
というふうに当事者間での責任のなすりつけ合戦に帰着する。
他罰的な文型で「処理」できる問題とどうにもならない問題がある。
最近の若い人たち(おじさん、おばさんもそうだけど)の中には、トラブルの責任をよそに押しつけることを「解決」だと思っている人が多い。
だから、ことばの上でよそに責任を押しつけることができても、事態は何も好転しないという当たり前の現実に遭遇したときに、幼児的なパニックに陥ってしまうのである。
旅行代理店という業態がなぜ存在するかご存じであろうか?
代理店なんか通さなくても、いくらでも格安チケットは手にはいるし、インターネットで海外のホテルの予約も簡単にできる。
それでも旅行代理店は必要である。
あれは「怒られ役」なのである。
海外旅行先で起きたすべてのトラブルについて「どうしてくれるんだよ! そっちの責任だろうが!」とどなりつける相手が他罰的な人々には絶対に必要である。
すべての責任をそこに押しつけることによって、旅行者当事者間での軋轢を回避するというあれは擬制なのである。
まことに人間というのはいろいろなものを考えつくものである。
「何? ブザンソンの宿が確保されていない? ふざけんじゃないよ。そっちの責任だぜ。おう、責任もってホテル取れよな。なことじゃ、金はらわねーぞ、こら」
と私は心おきなく日○旅行の下○くんを電話口でどなりまくっているのである。
下○くん、意地悪言って、ごめんね。
でも、ほら、それがそっちの商売なんだからさ。
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