する仕事がないとぼやいていたら、すぐに柏書房から『東京ファイティング・キッズ』のゲラが送られてきた。
でもこれは再校なので、できれば直しを入れないで、ただ「眺めているだけ」にしてほしいというコメントつきである。
あ、そうですか。
というわけで、じっと眺める。
自分で言うのもなんだけど、たいへんに面白い。
『東京ファイティング・キッズ』というタイトルはどこから取ったのですか、という質問をよくいただく。
「東京ナントカキッズ」というタイトルはわりとよくある「ありもの」である。
ネタもとはストーンズ (Street Fighting Man)。
最初は『東京ストリート・ファイティング・メン』というタイトルを考えたのであるが、長すぎるのではしょって、ついでに「メン」を「キッズ」にしたのである。ぼくたちがストリートを徘徊していたのはガキのときの話だからね。
私は本のタイトルをつけるのが好きである。
得意芸のひとつと申し上げてもよいかと思う。
「猫に名前をつける」のもひとつの芸である(これについては伊丹十三と村上春樹がそれぞれ掬すべき名言を語っている)。
私は本を書く前にまずタイトルを決める。
かっこいいタイトルが決まると、それだけでもう一冊本を書き上げたような気分になる。
最近の「納得タイトル」はこの『東京ファイティング・キッズ』と、『インターネット持仏堂』。
『インターネット持仏堂』はたいへん気に入っているのであるが、本願寺出版社の方からは「ぜひ『浄土真宗』の語を入れていただきたい」という要請があり、困っている。
『インターネット浄土真宗』ではなんのことかわからないし。
しかたがないので、本願寺新書(というものが創刊されて、これはその新書二冊分上下巻発売)の第一号を『いきなり始める浄土真宗』、第二号を『いきなり始めた浄土真宗』とするという奇策を提言した。
ただこれだと読者が「る」と「た」を見誤って、同じ本を二度買いしたり、同じ本だと思って一冊しか買わなかったりする可能性もあるので、第二案として、第一号を『これから始める浄土真宗』、第二号を『さきほど始めた浄土真宗』という案も用意している。
あるいは『浄土真宗なんかわからなくてもいいもん症候群』と『浄土真宗なんかわかっちゃったもん症候群』というのはどうか。
でも、本屋で書店員に「『浄土真宗なんかわかっちゃったもん症候群』ありますか?」と訊くのはちょっと恥ずかしいな。
その『インターネット持仏堂』の「締めの対談」のために釈先生とフジモトさんが小雨降る中、芦屋に登場された。
さっそく二時間ほどこれまでの往復書簡の中で語り残した点について、もう少し踏み込んだ話をする予定であったが、なんだか宴会っぽくなってしまった。
そこに装幀(予定)の山本画伯が登場して、画伯にイタリアンを作っていただき、ワインなどを酌み交わしつつ、「ベストセラーの前祝い」をしているうちに本格的な宴会になってしまった。
さまざまな有用な知見がご披露されたのであるが、ぜひ特記しておきたいことがある。
釈先生はじつは曾祖父の代までは「釈氏」姓だったそうで、「釈氏」というのは真宗の僧侶には非常におおい姓なのだそうである。
で、この「釈氏」というのが「猫も杓子も」というときの「釈氏」の語源だそうである。
では、「猫」って誰のことかというと、これが「猫」じゃなくて、「禰宜」(ねぎ)なのである。
「禰宜」というのは神社の神官のことである。
つまり、「猫も杓子も」とは「禰宜も釈氏も」つまり、「神官も僧侶も、神道信者も仏教徒も」、すなわち「誰でも」という意味になるのである。
日本は統計によると、神道信者と仏教徒をあわせるとそれだけで2億人になるそうである。ということは「禰宜も釈氏も」はたしかに「すべての日本人」を意味しうるのである。
それに、どう考えても、「猫」と「杓子」を同一カテゴリーに括りこむことができる共通点なんて存在しないしね。
どうして「猫」と「杓子」が同列に論じられることを疑問に思わずに来たのか。
わが不明を恥じることしきり。
と、書いてアップロードしたあとに、あれは「葱もパクチーも」の転訛ではないかという思いが浮かんだので、ここに書き留めておくのである。
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(2004-08-18 11:48)