『リベラシオン』を読んで、外国語教育について発作的に考える

2004-08-17 mardi

医学書院のゲラを出してしまったら、とりあえずいそぎの仕事がなくなった。
ちくまの新書の書き下ろしが夏休みいっぱいなので、それを書かないといけないのであるが、それはフランス滞在中の「おたのしみ」にとってある。
「とりあえずいそぎの仕事がない」というのは過去3年ほどほとんど一度もなかった状態であるので、呆然自失する。
これが世に言う「ワーカホリック」というやつだな。
することがないので、とりあえずフランス語の練習をする。
ときどき発作的にやっている「天声人語フランス語訳」である。
これはなかなかよい勉強になる。
何をいいたいのかよくわからない文章(「天声人語」はその好個の文例である)を仏訳するというのは、論理的に明快な文章の仏訳よりは語学力の向上に役立つ。
ふと、ナベツネのことをフランスのメディアはどう報じているのか気になって『リベラシオン』をひもといてみる(ひまだなー)。
ざんねんながら「ナベツネ」で検索したら何も出ず。
「ヨミウリ」で3件だけヒットした。「ヨミウリ」は「発行部数1400万部の保守系紙」だそうである。ついでに、「アサヒ」は「左翼紙」、「サンケイ」は「非常に保守的」と類別されていた。
なるほどね。
そのまま記事を読んでいたら、(ひまだから)「電子紙・電子インク」についての記事があったので、ずるずる読む。

「書物の町神田からわずか移動すると、突然風景が一変する。そこはエレクトロニクスのメッカ、秋葉原である。キチガイじみたネオンサインが点滅するこのバザールではニッポンの『オタク』(仮想世界に生きる子どもたち)les otaku,les « enfants » du virtuelが日本株式会社の最新のガジェットを前にして興奮している。」

フランス・ジャーナリストの日本特派員の中には、ウィリアム・ギブソンやフィリップ・K・ディック好きな人が多いようで、彼らの配信する秋葉原関係の記事はいつ読んでも、どことなく『ニューロマンサー』か『ブレードランナー』風である。
「otaku」は「kamikaze」とともに、おそらく現在もっとも頻繁に海外メディアに登場する「日本語」だろう(不思議なことだが、「カミカゼ」を「自爆テロ」と「翻訳」するのは日本のメディアだけである)。
意外だったのは(考えてみれば意外でも何でもないんだけれど)「飽くことを知らない活字愛好者である日本人は世界のいかなる国よりも大量の書物を消費している」という一文。
そうなのである。
最近の若い人は本を読まないとよく言われるけれど、マンガや雑誌を含めて考えれば、日本人の読書量はそれでもダントツで世界一だ。
電車の中、バスの中、地下鉄の中、ありとあらゆるところで人々は活字を読む。
平均週2冊の本を読んでいるそうである。
ふーん。
そうなんだ。
変な話だけれど、外国にしばらくいって外国の新聞雑誌を読んで暮らしていると、日本のことがよくわかるような気がする。
フランスにいる間、日本についての報道は非常に少ないけれど、その代り「潮目の変化」だけにピンポイントして報道がなされるので、その社会でいま何が起きつつあるのかを、日本国内にいてTVや新聞雑誌からの情報を浴びているときよりもクリアに把握できる。
私たちが「特殊」だと思っている事態が案外「ふつう」であり、私たちが「ふつう」と思っている事態がとんでもなく「異常」であるということは、外国のメディアを通してみないとなかなかわからない。
インターネットでこうして外国の新聞報道をリアルタイムで読むことができる時代になったのに、若い人でこの特権的な情報回路を活用しているひとは決して多くない。
外国語が「読めない」からである。
もったいない話である。
外国語教育の基本はまず「読むこと」であるというのは私の年来の持論である。
インターネットの時代はまるごと文字情報の時代である。だから、外国語の「リテラシー」の差がそのまま情報格差となる。
けれども、いまどき外国語教育というと、ほとんどのひとは「オーラル・コミュニケーション」の重要性しか言わない。
しかし、考えればわかることだが、オーラル・コミュニケーションでは、「目の前にいる人」としかコミュニケーションできない。
私たちが自分たちの生き方に決定的に重要な影響を与えるような外国語話者を「目の前」にする機会が一生に何回あるだろう?
「読む」というのは、「ここにいない人」と「好きなときに」コミュニケーションできる方法である。
「ここにいない人」というのは単に地理的に遠くてなかなか会えない人というにとどまらず、原理的に絶対にお会いする機会が得られない人(すなわち死者たち)も含まれている。
「受信しうるメッセージの質と量」に限って言えば、「聴く能力」と「読む能力」では受信できるメッセージの桁が違う。
どう考えても、「まず」リテラシーの涵養から始めるというのがコミュニケーションのコスト・パフォーマンスを考えたらいちばん合理的な選択のはずである。
しかし、現在の外国語教育は「まず」ネイティヴの発音を聴き取ることから始めることを当然としている。
なぜ、このような不合理な教育戦略が採択されているのか。
これについて話すとすごく長い話になるので、駆け足で要点だけを言う。
「読む」とき、読み手はテクストに対してかなりの自由裁量権を発揮できる(前の頁に戻ったり、わからない単語を辞書で引いたりすることは読み手の自由に属する)。
もちろん、「何を書いているのか、わからねーぞ、んなろ」と言ってばたんと本を閉じる権利もまた読み手のものだ。
その点だけについていえば、読み手と書き手は(幻想的な準位においてではあるけれど)、「対等者」として向き合っている。
しかし、外国語を「聴く」ときには、聴き手にはそれほどの自由は許されない。
理解できない単語は理解できないまま宙に消える。
辞書を引く暇なんか与えられない。
「すみませんが、もう一度」と要請することは、しばしば聴き手の知的劣位を告白していることにひとしい。
もちろん、「何言ってるかわからないぜ」といって、相手を「消す」こともできない(自分がその場から「消える」ことしかできない)。
つまり、「読ませる教育」と「聴かせる教育」では、圧倒的に「聴く」教育の方が「送信者」の知的威信が高いのである。
私はネイティヴの綴り字の間違いや文法上のミスを指摘することができるが、彼らの発音の間違いを矯正することはできない。
というより、そのような権利は学習者には与えられていない。
オーラル・コミュニケーションを外国語教育の中心にする限り、ネイティヴ・スピーカーは絶対不敗の知的威信を構造的に確保されている。
だから、植民地主義的発想で外国語教育を行うすべての旧帝国主義国家は、まずオーラル・コミュニケーションの習熟を植民地人民に求めるのである。
それはリーディングから先に教えると、できのよい植民地の秀才が短期間に「宗主国民」よりも知的に上位に立つ可能性があるからである。
日本について言えば、英語をオーラル中心に学ばせるということは政治的には「英語話者の知的威信が構造的に担保される」体制を堅持するということである。
私は英語であれフランス語であれ、「学習者の知的水準がつねに劣位に固着されているコミュニケーション」にはどうも気が進まない。
それは私の性分のなせるわざだから、拡大適用することは控えるけれど、「英語話者の知的威信が構造的に担保され、ノン・ネイティヴがつねに劣等感を覚えるような教育システム」を採用していることの政治的な意味について、ときどき考えることは必要だろうと思う。
--------