哲学上方場所・番外編

2004-08-14 samedi

『ミーツ』連載の「哲学上方場所」の特別編。テーマは「レヴィナス」。
鷲田清一、永江朗ご両人のレギュラー対談に、今回はウチダが乱入して・・・という企画である。

鷲田清一先生とRESETの前で

プロデューサーは東京から来た晶文社の安藤さんと『ミーツ』の江弘毅編集長。そして、Re-setの橘さん、ウッキー、読売新聞の山口さん、『ミーツ』の青山さんがまわりを取り囲む。
「哲学上方場所」は哲学書の「決めの」1パッセージを持ってきて、それをネタに永江さんがいろいろと質問をして、鷲田先生がそれに「はんなりと」お答えするというたいへん教化的かつフレンドリーな企画である。
前回のフッサールのときにウチダも打ち上げ宴会にお招き頂いたのであるが、仕事が詰まっていてご無礼してしまった。次回は必ず遊びにゆきますと電話口でそのとき鷲田先生にお約束したのである。じゃあ、次はウチダくんが来るからレヴィナスをやろうということになった(らしい)。
鷲田先生、永江さん、どちらもウチダは初対面である。
名刺交換など通常の儀礼的行動ののち、乾杯して、ただちにアルコール摂取行動をともないつつレヴィナスの『全体性と無限』をテーマにした鼎談が始まる。
最初のうちは、永江さんのインタビューに対して、不肖ウチダがレヴィナス老師の意のあるところを代弁するというかたちで静かに進行したけれど、私ごときに老師の無窮の叡智を代弁できるはずもなく、しだいに途中から「なこと訊かれても、わっかんねっすよお」的な知性崩壊が表面化しかけるが、なんとか「没収試合」をまぬかれることができたのはひとえに鷲田先生の時宜を得た助け船のおかげである。
今回の結論は「レヴィナスがあんなにむずかしいのは、日常生活の深みと錯綜をそのまま哲学的言語に置き換えようとしているから」というもの。
これは私の持論であるが、ひとびとが信じているのとは反対に、「哲学は簡単すぎ、現実は複雑すぎる」のである。
考えてみれば当然である。
どのように包括的な哲学でも、私たちの生きている現実のごく一部を切り取ることしかできない。
「愛する」という動詞は哲学的命題の中では一義的に用いられるけれど、実際の生活の中では「キミを愛している」というのと「母を愛している」というのと「あんパンを愛している」というのと「モーツァルトを愛している」というのとでは、「愛している」ということばの意味が違う。そのことばを口にしたときの情動も違うし、身体反応も違う。高揚感も愉悦も心拍数も発汗も体温もみんな違う。
「キミを愛している」という同じことばだって、恋に落ちて三日目の恋人に向かって言う場合と、結婚15年目の妻に向かって言う場合では、ニュアンスが違う。
どう考えたって、ことばだけで編み上げられている哲学が現実の厚みに追いつけるはずがない。
でもなかには野心的な哲学者がいて、哲学のことばで現実のとらえどころのない厚みに肉迫しようとする。
レヴィナスは、そういう野心的な哲学者のひとりである。
だから「顔」とか「他人」とか「殺す」とか「不眠」といった日常語を哲学用語として使うという「非常識」をあえて犯すのである。
「『顔』なんていわれても意味わかんないよ、『顔』って、あの顔のこと?」
そうです。あの「顔」のことです。
でも、よく考えてごらんよ。顔って、日常生活の中でさえ、一義的なものじゃないでしょ?
「顔を洗う」というときと「顔がいけてる」というときと「顔貸せや」というときと「このへんじゃ、いい顔」というのと「世間さまに顔向けできない」というときとでは、「顔」の意味って違うでしょ?
レヴィナスは「顔」をたかだか二つの意味で使っているにすぎない。
いっぽう、私たちが日常的に使い分けている「顔」の意味は二つでは収まらない。
どちらが複雑かといったら、哲学用語と日常語では、日常語の方がずっと複雑な構造になっている。
私たちの生の日常に肉迫してくればくるほど哲学はわかりにくくなり、机上の空論になればなるほど哲学はわかりやすくなる。
存在的に近しいものほど存在論的には難解であるというのはかのハイデガーの卓見である。
逆に言えば、存在論的にわかりやすいものとは存在的には疎遠なものなのである。「わかりやすい哲学」が論じているのは私たちが日常で触れることのないものである(神や地獄や奇跡を主題にした哲学はたいへん簡単である)。
私たちが日常で経験していること(眠り、疲れ、食欲、エロス、労働、暴力・・・)を論じると哲学はとたんに難解になる。
それは現実が哲学用語ではカバーしきれないほど宏大だからであって、哲学用語が人知の及ばぬほどに難解だからではない。
レヴィナスの難解さは現実に密着しているがゆえの難解さである。それゆえ書斎の哲学者よりもむしろ「街のレヴィナス派」がレヴィナスのうちに親しみを覚えるということが起こりうるのである。
というような話をすればよかった・・・
次々と注がれるシャンペンを飲みつつ語ったので、すっかり酩酊。途中からどんどん脱線して、後半は鷲田さんと江さんの「大阪文化論」がヒートアップ。三宮の夜はしんしんと更けてゆくのでありました。
--------