愉しい夜更かし

2004-08-10 mardi

「楽しい夜更かし」ツァー。
兄ちゃん、平川くん、石川くんと箱根湯本に湯治麻雀に出かける。
二泊三日で、宿の一室に立てこもって、60年代ポップスを聴きながら、終日麻雀をやり、温泉に浸かり、山海の珍味を堪能するという究極の極楽ツァーである。
どうして急に麻雀がやりたくなったのか、理由はよく分からない。
とにかく30年ぶりに無性に麻雀牌を握りたくなったのである。
学生のころは、ほんとうによく麻雀をやった。
朝学校に行っても教室には行かず、とりあえず駒場の駅前の草むらに腰を下ろして、通学してくる学友たちを勧誘する。
「ね、麻雀やらない?」と言うと、さしも堅固なる学友たちの学的向上心もたちまち日向のアイスクリームのようにとろけてしまう。
まず一人ゲットすると、こんどは二人がかりで「ねえねえ」と知り合いに声をかける。
三人目までみつかるとあとは一瀉千里。
三人に囲まれて、「ようようやろうぜ、授業なんか、いいじゃない。フケちゃおぜ」とすごまれると、まずこれに抵抗できる者は少なかったのである。
卒業したあとも、兄ちゃんとはウエキくんやマサヤくんヒサシくんたち自由が丘の諸君とよく卓を囲んだ。
平川、石川両君とは「雀鬼」イワタくんの家に『聖風化祭』のメンバーでよく集まってはさんざんカモにされたのも懐かしい思い出である。
16歳で麻雀を覚えてから、足を洗うまでの10年間はなんだかやたら麻雀ばかりやっていたような気がする。
それ以外のより生産的なことに集中していれば、どれほど私自身のためにも世間のためにもなったかもしれない数千時間の貴重な青春を私はドブに捨てるように浪費したのであった。
その後、四人とも25歳くらいを境にぱたりと麻雀を止めた。
以後30年近く、ほとんど一度も牌に触れることなく歳月は流れた。
去年の正月にこの四人で会ったときに、「麻雀やりたいね」とたしか兄ちゃんがふいに言い出して、それから何となく「やりたい」ような気がしてきた。
日記にも書いたように五月に風邪をひいて高熱を発しているときに、何度か麻雀をしている夢を見た。
阿佐田哲也の『麻雀放浪記』を読み返して、「ああ、そうそう、こういう遊びがあったんだよな」と心がざわめき始めた。
それからとんとんと話が進んで、今回の「楽しい夜更かしツァー」の実現の運びとなったのである。
いやー、愉しかった。
四人とも30年近くぜんぜんやっていないので、やり方をずいぶん忘れている。
山を積むときに牌をばらばらこぼすし、骰子を転がしたあと、「6って、どっちの山だっけ?」と当惑し、山を切った後も、どちら周りで牌を取るのか分からなくなり、最初にあがった兄ちゃんも点数が計算できずに、四人がかりで、「えーと字牌の暗刻が8符でしょ・・・、リャンメン自摸ったら4符?で40符3翻て、いくらになるの・・・」「さあ・・・」と3分くいら考えてしまった。
しかし、さすがに30年前とはいえ、数千時間を無駄に投じただけあって、1時間もしないうちに全員むかしながらの軽口を叩きながらのシビアの打ち手に復帰。

「麻雀は運だよ」とウチダにほほえむヒラカワ君

石川くんが仕込んできた数千曲の60年代ポップスを合唱しながら、(題名あて歌手あてクイズも同時並行にすすめつつ)すばやい手さばきで牌を卓に叩き付け、点数も「はい、ニーロク通し」「はい、クンロク二本場一万とんで二百点」などと快調なペースで半荘を重ねていった。
一荘やっては温泉に浸かり、おそばをたぐり、温泉まんじゅうを囓り、半荘6回やっておしまい。
戦績は平川くんが4回トップでダントツの100点。兄ちゃんがプラ37,石川くんがマイナス38,私が一度もトップをとれず、ダンペのマイ99。
27持ち3万返し、5,10のウマというロースコア設定だったので、あまり差がつかなかったが、25持ちの3万返し、10,30のウマという30年前のきつめのルールでやっていたら、私の負けは200を優に超していたであろう。危ないところであった。
無人の温泉にゆったりつかりながら、全員で「いやー、麻雀は愉しいね」と大満足。
60年代ポップスを合唱しながら、麻雀をやって、温泉に浸かるというのは老後の楽しみとしてこれ以上のものはないというほど結構なものである。
今後も「愉しい夜更かしツァー」の定例開催を約して散会。
次回は来春である。
今度は勝つぞ。んなろー。
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