がんばれ兵庫県警

2004-07-29 jeudi

夏休みのはずだが、朝から大学へ。
フランス語海外語学研修のための出発前講習の開講のご挨拶である。
講義自体はフランス人のシェラス先生にお願いしてあるので、私はただ、「では開講します」というだけである。
なんでこんな五分ですむ挨拶のために暑い夏の日に朝から学校へ呼び出されるのかよくわからない。
でもおかげで集中講義に出講前の山本浩二画伯と会うことができたので、先日のコンサートおよび亀寿司のお礼を申し上げる。
ついでに学長室に寄って小寺さんとプチ密議。
学校の帰りにドクター佐藤を拾って、下川先生のお稽古へ。
ドクターは湊川神社の正謡会の舞台を見ているうちにむらむらと能楽がやりたくなってしまったので、今般下川社中に入門することになったのである。
ご挨拶をかねて、お稽古見学。
一月近く稽古が空いてしまったので、『巻絹』の仕舞の道順を忘れてしまう。
いつのも下川先生ならびしびし叱られるところだが、今日はドクターが見ているので、「じゃあ、はじめからやりましょう」とちょっとやさしい。
おばさまがたにご挨拶してから車のところへゆくと、兵庫県警が「駐車禁止」のステッカーを貼っているところにでくわした。
兵庫県警は不祥事が相次いでいて、意気消沈しているかと思いきや、公務に余念がないのは欣快の至りである。
交通量がほとんどない道幅のひろい道路の、無人の家の塀にぎりぎりに寄せて停めている車をわざわざ探し出し、それを48分間見張って、駐禁にするというようなきめのこまかい目配りは県警ならではのサービスである。
兵庫県警のますますの活躍を祈念しつつ、15000円をお払いする。
七月八月のお月謝、お中元、別会チケット、免状+駐禁の罰金で、下川先生のお宅に1時間半立ち寄るあいだに**万円使ってしまった(あ、めまいが・・・)
能楽を嗜む人がいまひとつ増えない最大の要因は「お金がかかりすぎる」ということである。
その根源にあるのは「家元制度」という収奪システムのせいなのである。
しかし、これを言い出すと角が立つので、やめておく。

ドクターを芦屋までお送りして家にもどり、「使った分だけ稼ぐ」という資本主義的にたいへん前向きな姿勢を回復して、大瀧詠一論の続きをばりばりと書く。
ばりばりと書くというよりはばりばりと聴く。
聴くといっても、『ロンバケ』とか『レッツ・オンド・アゲイン』を聴くのではない。『新春放談』や『日本ポップス伝』を聴くのである。
大瀧詠一というのは本質的に「語る人」である。
「語る人」は受け答えの響きのよい人を相手にすると、ぐいぐいドライブがかかってきて、ご本人が言う気のなかったことまで話し出す。
『新春放談』が20年続いているのは、山下達郎という絶妙の「聴き手」がいるせいである。
大瀧詠一はすごく「声がいい」。
声がいい人は、「自分の語っている声に自分で聞き惚れる」ということが起こる。
これはかのモーリス・ブランショのいうところの「私が語っているときに、私と同じことを〈私と名乗る他者〉が語っている」状態に近い。
こういうときには何か〈私ならざる〉非人称的なものが〈私のパロール〉に来臨する、というようなことが起こるのである。
これはほんと。
午後五時になったので、竹園ホテルの La Rue に谷口さんとの待ち合わせにゆく。
谷口さんは大学院の聴講生であり、かつ合気道のお弟子さんであるが、今回は仕事の話。
谷口さんはこの四月から読売新聞の映画関係紙面に担当替えとなった。担当する『エピス』というフリーペーパーに秋から映画評を、というお話である。
連載仕事はきついので基本的にお断りしているのであるが、お弟子さんからの依頼とあれば断るわけにはゆかない。
それにこの仕事を受けると、映画配給会社全社の試写会のフリーパスがいただける。
ウチダはぜんぜん街に出ない人間なので、当然映画館にもぜんぜん行かない。
そういうことで映画批評など書いてよいのか、という叱責は松下正己ほか関係各方面から殺到しているのであるが、街へ出るのが、めんどくさいのである。
それに映画館は完全に「デートコース」と化しており、ほとんどカップルしかいない。
そういうことろで女の子に半チクな映画解説をしている男の声をきかされたりすると殴り倒したくなるし。
しかし、試写会なら、そういうこともあるまい(もっとあったりして・・・)。
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