食本鬼の哀しみ

2004-07-26 lundi

最初の夏休みらしい休日。
どこにもゆかなくてよいし、誰にも会わなくてよい一日を迎えるのは、ほんとうに何週間ぶりのことか。
とりあえずぐうぐう寝る。
のそのそ起き出して、森永さんのCDでアリアを聴きながら、まず掃除と洗濯とアイロンかけ。
オペラを聴きながら家事、というのはなかなかよい。
とくに『フィガロ』は家事のテンポによく合う。
家の中がきれいになったところでお昼ご飯を食べる。
お昼ご飯を食べたらお腹がいっぱいになったので、ソファーにごろ寝して『アイヴァンホー』を読む。
なんで、いまごろそんなものを読んでいるかというと、『ユダヤ文化論』のために中世ヨーロッパにおけるユダヤ人差別のメンタリティについて書こうと思ったときに、『アイヴァンホー』にアイザックとレベッカというユダヤ人親子が出てきて、すごく意地悪される話があったことを思い出したからである。
そのとき、「アイヴァンホー」って誰だっけ・・・?と記憶に巨大な空白があることに気づいて読み返すことにしたのである(タイトルロールのわりには影の薄いやつなんだよね、これが)。
読み出すと面白い。子母澤寛の任侠小説みたい。
そういえば、『若草物語』の中に、メグがリンゴを囓りながら『アイヴァンホー』に読みふけっていて、ジョーが呼びに行ってもなかなか本を手放さないというシーンがあった。
少年少女世界文学全集には小磯良平画伯のきれいな挿絵があって、そのせいで「リンゴを囓りながら『アイヴァンホー』を読んでいる女の子」というのは少年ウチダの久しい理想像だったのである。
不幸なことに(あるいは幸運なことに)リンゴを囓っている女の子にはその後の人生において何度も出会ったのであるが、その中の誰一人『アイヴァンホー』を読んではいなかったのである。読んでいたら、そのまま求婚していたであろうに。
黒騎士とロビン・フッドがアイヴァンホーの囚われているフロン・ド・ブーフの城を攻めているあたりで眠くなり、そのまま昼寝。

二時間ほど至福の golden slumber を堪能したのであるが、起きあがるとさすがに半日でれでれしていたことが悔やまれ始める。
根が貧乏性なので、一日ごろごろするということができないのである。
そういえば、『他者と死者』のゲラも、『東京ファイティング・キッズ』のゲラもまだ手を入れていないし、大瀧詠一論もまだ書き上げていないし、次の自己評価委員会のための討議資料も作っていないし、ユダヤ文化論のノートも書けてないし、池上先生との対談のデジタルデータもそのままだし、『安達原』の謡の稽古もしてないし・・と「やってないこと」を数え出すとたちまち深い焦慮と悔恨の虜囚となり、あわてて机にしがみつく。
このあいだナバちゃんに「ウチダさんが使えるはずの時間とアウトプットのあいだにどうみても相関関係がない」とエイリアンを見るような眼で見られた。
別に秘訣があるわけではない。
貧乏性なので、ゆっくりひとつことをするということができないのである。
絶えず複数のことを同時にしていないと気が狂いそうになるのである。
例えば、私は本を読まずにご飯を食べることができない。
ひどい近視であるから、本を顔のそばに近づけないと文字が読めないのであるが、そうすると口元にご飯を運ぶ箸と本がバッティングする。
やむなく、一時的に本を遠ざけて、そのあいだに食物を口中に放り込み、あわてて本を引き寄せるのである。その間の1秒が私には耐えきれなく長い無為の時間と思えるのである。
もちろんトイレに入るときは必ず本を読む。
トイレのドアをあけてそこにある「置き本」をちらりと見て、「あ、これさっき読み終わったんだ」と思うと、それだけで後悔の冷や汗が出てくる。
あわてて書棚に駆け寄り、とりあえずトイレの中で読むべき本を探す。
しかし、私はトイレにはいるぎりぎりまで仕事をしている人間なので、トイレのドアを開いた時点で肛門周辺はすでに「緊急事態」になっており「あと10秒で本船は爆破されます、ナイン、エイト、セブン・・・」というカウントダウン状態に入っている。その状態でなお書斎にとって返して読むべき本を探しているのである。『エイリアン』でシャトル脱出直前に本船に戻って猫を探しているリプリーの心境である。
しかるべき本をゲットすると、そのまま脱兎のごとくトイレに駆け込み、無事に排泄と読書をすませ(所要時間30秒)、ふたたび仕事に戻る。
読むべき本のないその30秒が私には無限とも思える無為の時間なのである。
当然、電車に乗るときは必ず本を読む。
途中で読み終えてしまったときの絶望を考慮して、忘れず「控えの一冊」も持参する。
駅まで着いてから鞄の中に読む本がないことに気づいたりするとパニックになり、待ち合わせ時間が刻々と迫っていても、とりあえず近場の本屋に飛び込み、「電車本」を購入する。
本を読むときも本に「没入」なんかしていない。
そんな悠長なことをできるくらいなら「貧乏性」とは呼ばれない。
本を読みながら、原稿を書いているのである。
本を読んでいるとき、しばしば本を読むのを止めて、本を手にしたまま、口を半開きにして、中空を凝視している。
その凝視が数分続くこともある。
これは本の中のある一行に触発されて、脳のなかで轟々と渦巻いた妄念が脳内テキストファイルに記録されている状態なのである。
映画を見るときだって、映画に没入できない。
『悪魔のはらわたパート2』や『13日の金曜日パート4』を見ながら、頭の中では「アメリカホラー映画論」の草稿がばりばりと書き進められているのである。
どうして、こんなにせわしない生き方をしなければならないのか、われながら情けない。
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