『お早よう』再見

2004-07-20 mardi

京都大学の集中講義が始まる。
四日間で15コマというハードなお仕事である。
ウチダをお呼び下さったのは京大文学部の20世紀学専修の杉本淑彦先生。
「20世紀学」というのがどういう学術領域なのか字面からでは判然としないが、杉本先生のご専門はフランス社会史。表象と記憶とナショナリズムの絡み合いというなかなかわくわくする分野でお仕事をされている(最近は、日本の戦争映画の研究をされているそうで、『ハワイマレー沖海戦』とか『回天』といったマニアックなビデオがずらりと並んでいた)
お目にかかるのははじめてだが、たいへん温厚でフレンドリーな方である。漫画と映画が大好きなもの同士なので、その話でたちまち熱いトークが始まる。
今回の集中講義のテーマは「超 - 身体論」。
「身体論を超えて」ということだから、べつに身体に関係しなくてもよろしいのである。
この一二年考えているあれこれのとりとめのない主題について、小咄をいくつかつなげて、学生さんたちが狐につままれたような顔をしているうちに、「お後の支度がよろしいようで・・」とすたこら退散する予定である。

初日は「交換とコミュニケーション」の話。
午前中は、「知的酸欠状態を生き延びるための、肺活量の増大」について自説を展開する。
午後は交話的コミュニケーションの話。ヤコブソンの定義を紹介してから、「百聞は一見に如かず」で小津安二郎の『お早よう』をごらんいただく。
まことによくできた映画である。
40人ほどの学生さんたちのうち小津映画を見たことがある方は二人だけ。
日本映画の巨匠といわれている小津の映画だから、さぞや仰々しい芸術映画だと思って敬遠してきたのであろう。
その誤解を払拭しただけでも、この集中講義の効用はなかば達せられたと申し上げてよいかと思う。
みんなくすくす笑って見ていたが、平一郎と節子の駅頭の「良いお天気ですね」には爆笑。
これが映画史上に残るラブシーンである所以をそのあととくとくと説明する。

『お早よう』を見るのは、10回目くらいであるが、毎回新たな発見がある。
今回発見したのは二点。
ひとつは節子が子どもたちを探して平一郎のアパートに行くとき、玄関先で立ち話をする節子(久我美子)のコートと、背中だけ見える加代子(沢村貞子)のスカートが「同じ柄」だということ。そればかりか、平一郎を含めて三人とも「緑色の服」を着ている。
これはおそらくこの三人が遠からず親族関係で結ばれることを図像的に暗示している。
もうひとつは、この映画の「裏主人公」が次男の勇ちゃん(島津雅彦)だということ。
この子役のあまりに愛くるしい顔かたちに騙されてしまうけれど、勇は「最悪の人間」なのである。
彼は長男実(設楽幸嗣)の欲望を模倣するだけの鏡像的存在であり、それゆえ想像界の住人に固有の暴力性と反秩序性を色濃く刻印されている。
勇は左右のフックを繰り出す威嚇的な身振りを全編で繰り返し、映画のラストでは観客に向かって二丁拳銃を抜いて撃ってみせる。
ガス橋のかたわらでは立ち小便をし、その手を洗わぬままにご飯を手づかみで食べ、薬罐の水を手のひらでうけて飲む(実はやかんの蓋をお茶碗代わりにして、ご飯もいちおう「おにぎり」型にしてから口にする)。
そして、繰り返し彼が口にする「アイラブユー」のリフレイン。
模倣、暴力、エロス。そのすべての点で勇こそは「秩序にまつろわぬもの」すなわち「童子」の原型であり、この反秩序のかたまりのような幼児を馴致し、開明してゆくことの絶望的な困難さがエディプスの重い課題として暗に提示されてもいたのである。

今日はこれから二日目の講義。
明日は光岡先生が来られるから、コミュニケーションと交換の話からするすると武道的身体運用に話題をシフトしないといけないのであるが、このつなぎがなかなかむずかしい。
いかにして身体感受性を「フロー」の状態に保つかという話をして、「居着き」の話題に振って、それから午後の映像タイムには黒田鉄山の民弥流居合のビデオをごらんいただく予定である。
明後日は、それを承けて、コミュニケーションと武術的身体を統合する「死」のテーマに収斂して、最後はヒッチコックの『ハリーの災難』で締めるのである。
おお、これはなかなか練った構成だな。
このネタで当分集中講義には困らないぞ。
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