『物質と記憶』

2004-07-18 dimanche

ベルクソンの『物質と記憶』を読む。
たいへんに面白い。
ベルクソンという哲学者は、若い人たちの間ではあまり人気がないけれど、それはこのおじさんが徹頭徹尾「常識の人」だからである。
まことに「常識的」なことを、あきれるほどに精緻な学術的論証を積み重ねて検証するのである。
遠くモンテーニュから始まって、アラン、アナトール・フランス、ベルクソン・・・とフランスにはこの手の「該博な学識を駆使して、『当たり前のこと』を語る」知性が存在する。
若い頃に読んだときはぜんぜん面白くなかったベルクソンであるけれど、五十路を過ぎて読むとなかなか面白い。
『物質と記憶』は、観念論と実在論の極端な主張をおしとどめて、「ま、そうそうつっぱらずに、どうですここはひとつナカとって、表象よりは現実的で、事物よりは幻想的な、事物と表象の中間にあるものを『イマージュ』と呼ぶことにしては・・」という妥協を策したものである。
こういう「ナカ取って」というようなことをなかなかここまではっきりと口には出す哲学者はおらない。
そんなベルクソン先生の面目が躍如たるのは記憶の話。
どうして、大人になるとこうも物忘れが激しくなるのか、思い悩んでいたのであるが、先生によれば、これがまるで心配には及ばなかったのである。
先生のご意見はこうだ。

「たいていの児童に、自発的記憶が異常に発達しているのは、まさしく彼らがその記憶力を行動と連携させないところからくる。彼らはその場その場の印象を追うのが常であって、彼らにあっては行動は記憶の指示に従わないから、逆に彼らの記憶は行動に制約されない。」(『物質と記憶』、田島節夫訳、白水社)

私も覚えがあるが、子どものころは有用性というようなことを考えずに、なんでも記憶してしまう(私はプロ野球に興味がなかったのに、西鉄ライオンズのスターティングメンバーの打率を記憶していた)。
私たちがぜひとも記憶されるべきものと、どうでもいいものを差異化するのは、ある種の記憶を繰り返し甦らせることが生存戦略上有益であることが経験的に確証された「後」になってからのことである。

「子どもの方が容易におぼえるように見えるのは、彼らの想起がそれだけ弁別を伴わないからにすぎない。知能が発達するにつれて、一見記憶力が減退するのは、したがって、記憶と行動の組織化が増大するところから来る。そういうわけで、意識的記憶力は鋭さにおいて得るだけ、広さにおいて失うのである。」

なるほど。
私のような劫を経たおじさんになると、名刺を交換して仕事の打ち合わせをした方と、五分後に廊下ですれ違ってお辞儀をされても「誰だっけ?」と困惑するような極端な「記憶力減退」を病んでいる。
名誉のためにあえて名を伏せるが、同僚の先生はあるとき今津線の中で見知らぬ学生に話しかけられた。「ああ、うちの学生なんだな」と適当に相づちをうち、そのまま門戸厄神で降り、通学路を並んで歩き、正門をくぐり、坂を上ったが、学生がまだついてくる。JD 館に入り、研究室のドアをあけてもまだそのままついてくる。なんと図々しい・・・と思ったら、自分のゼミの学生だった、ということがあるそうである。
まあ、ご同輩たちも私とだいたい似たり寄ったりということである。
ベルクソン先生のお説によるならば、どうやら、それは私たちが人と出会ったときに、その人とのかかわりが今後の私の行動にどのような連携を有するか、そこからどのような利益が期待できるかを考量し、「使う予定のない記憶」に脳のメモリーを喰わせないために記憶をどんどん「ゴミ箱」に棄てているからなのである。
忘れられた方たちの存在は「使う予定のない記憶」に類別されたということである。
まことに気の毒である。
だが、おじさんたちの記憶力減退を責めるよりも、みなさん方が「ぜひこの人と連携してゆきたい」という志向を喚起するというしかたでおじさんたちの記憶力を行動的に制約する方向に努力されてはいかがかと思う。
「これほど頻繁に会っているのに、どうして私のこと忘れちゃうんですか!」と私をなじる人がときどきおられるけれど、そんなことはない。私はちゃんと記憶している。その方と会うたびに、私の用事がふえ、私の時間が削り取られることを記憶しているからこそ、私は記憶からそのつどあなたの名前を消しているのである。
会うたびに私の用事が減り、私の悩みが解決するなら、私はけっしてその人の名前を忘れることがないであろう。
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