意地張り男の夏スーツ

2004-07-16 vendredi

授業最終週となり、ひとつまたひとつと前期の科目が終わってゆく。このカウントダウンはなかなかよろしいものである。
夏休みになると、もうスーツを着なくてよいというのがうれしい。
大学教員というのは服装の自由がかなり認められているが、私は自らに課したルールとして、教壇に立つときは必ずスーツにネクタイと決めている。
カジュアルな格好で教壇に立つと、なんだか足下がスースーして不安になるのである。
この間、ウッキーの教育実習に行ったとき、高校の校舎に入るときにスリッパに履き換えさせられたのがすごくいやだった。
スーツにスリッパというのは「中年男の脇の甘さ」を図像的に表象しているような気がするからである(ジャージーに革靴というのも、そうだね)。
だから、イタリアンスーツに、磨き上げた靴、仕上げに「エゴイスト」をまぶして教室に行く。
全身から「なめたらあかんで」という戦闘的なシグナルがばしばし発信される(ような気がする)からである。
同僚の中には、かなりラフな格好をしている人がいる。
申し訳のようにネクタイを首にまきつけた「これでよかんべ」的な姿を見ると、なんだかもの悲しくなる。
私が学生だったら、教壇に立つ人はそれなり「気合いを入れて」いただきたいと思うだろう。
自分たちの前に立つためにこの人はそれなりの時間をかけてスーツを選び、シャツを選び、ネクタイを選んでここに来た、というのはわずかなことだけれど、学生たちは直感的にわかる。それが自分たちに対する一種の「敬意の表現」であるということもわかると思う。
しかし、暑い。
来週も集中講義があるから、あと四日間はいちおうそれなりの格好をしなければいけない。でも、そのあとは二ヶ月、半ズボンとアロハとゴムゾーリで過ごそう。
『現代思想のパフォーマンス』がさらさらと終わる。
20%まではゆかないが、かなりの量を削減。ラカンのところを中心に少し書き加える。
これで一丁上がり。
さて、ひとつ仕上がったから、週末は集中講義用のノート作りだ。
このノートをそのまま秋の朝日カルチャー・センターで使い回して、それをさらに『レヴィナス論第三部・時間/運動/記憶』に流用しようという「一石三鳥」計画なのであるが、果たしてそううまくゆくであろうか。
基本になるアイディアは「記憶は運動性のものである」というものなのであるが、どういうふうになるのか、まだよくわからない。
プルーストの『失われた時を求めて』に、マドレーヌを食べたら少年期の日が甦ったとか、けつまずいたらベネチアの石畳を思い出したとか、そういう話があった(ような気がする。遠い昔のことなので忘れた)。
それをネタにしようと考えているのであるが、うまくまとまらなかったら、そのままご放念ください。
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