やさしい日本人

2004-07-13 mardi

参院選の結果について海外ではどういう報道がなされているのか興味があって『リベラシオン』を開いてみたら、記事がなかった。
なるほど、日本の参院選の結果に興味があるフランス人なんてあまりいないんだ。
30 年前の夏に私はフランスにいた。ちょうど参院選があって、野坂昭如や青島幸男の当落が知りたくて毎日『ル・モンド』を買ったが、選挙の記事どころか、何週間にわたって日本についての記事そのものがなかった。
それに比べれば、『リベラシオン』には6月1日付けの、「小泉首相も年金未納」という記事があっただけ多としなければならない。
日本を見る目もこれでだいぶ細やかになってきてはいるのである。
『リベラシオン』が最近いちばん集中的に扱ったトピックはイラク人質事件とそのあとの「自己責任論」である。
救出に要した費用を人質の家族は弁済せよ、という議論がよほど興味深かったのか、その経緯がかなり詳しく紹介してあった。

「衰弱しきって帰国した人質たちは彼らの拉致と解放が引き起こしたネガティヴな反応の嵐に驚愕した。防災有事法制担当大臣の井上喜一は『家族はこの問題について釈明すべきである』と語った。
外務副大臣、相沢一郎は仲介者あるいは誘拐犯へ身代金が支払われたことを否定した。前日複数のメディアが20億円(1550万ユーロ)の身代金と報道したが、「絶対にありえない」と副大臣は述べて、『人質解放のために巨額の身代金が払われた』という民主党(野党)の一代議士に反論した。
総理大臣も人質に対しては腹にすえかねており、彼らが解放後もイラクにとどまって仕事を続けたいと述べたことについて、『どうしてそんなことが言えるのか』と激高した。」

この記事から漏れてくるのは、日本の政府は国民にたいして冷たいという批評よりも、政府と国民の「べたついた」関係にフランス人が抱いた違和感である。
政府の採択した外交政策から派生した人質事件という高度に政治的な問題について、「家族の責任」や「金」や「激高」といった水準を軸に議論がなされることに対する驚きが行間から伝わってくる。
日本の政治というのは、たぶんヨーロッパ人の目から見ると、とても「家庭的」に見えるのであろう。
いまの総理大臣がその職を得たのには、3年前の総裁選のときの田中真紀子の応援が与って大きかった。
今回、田中真紀子は舌鋒鋭く小泉純一郎を批判したが、3 年前には「母のような妹のような」立場から情緒的な応援を行ったと述懐している。
この人はまたTVニュースを見る限りでは、自分の夫の選挙運動中にしばしば候補者を「パパ」と呼び、自分を「ママ」と呼ぶことに抵抗を感じない人のようである。
亀井静香は派閥の候補者の出陣式で「土下座」をして支持を訴えた。
たぶん「わが子」のために道行く人に取りすがる「母」の心情が有権者の琴線に触れることを願ったのであろう。
政治家が、その政治家的能力の高さを訴えるべき場で、「親族関係」のアナロジーに依存するという習慣はヨーロッパ人には理解不能のものだろう。
人質事件のときの「まったく世話かけやがって」という政府関係者やメディアの憤りは、よくよく見ると、不始末をしでかしたわが子を警察に請け出しに行って、警官に頭を下げて戻ってきたあとに、子どもをどなりつける親の感情表現のしかたに少し似ている。
そうか、日本はやっぱり「一家」なんだ。
「51議席を割ったら、責任をとります」と安倍幹事長は1週間ほど前に約束したが、それは「なかったこと」になったらしい。
これをして「けしからん」と怒るひとがいるが、日本の政治家は「みな家族」と考えると、それくらいの食言は許容範囲だ。
そう怒っている民主党だって、年金法案のことでも、イラク派兵のことでも、言うことがだいぶ変わったが、お互いにそのことはあまり追求しない黙契になっている。
家の中で、「あなたが一週間前に約束したことと、今日の発言は違うではないか。その政治責任を取れ」というようなことを互いに言い合ったら、家庭は持たない。
この何となくべたついた日本の政治風土を変えるべきなのか、このまま使い回していった方がいいのか、私にはよく判らない。
与党幹事長が一週間前に国民に向かって約束したことも「あれはあれ」でさらりと反古にできるということであれば、アメリカ大統領に向かって約束したことも「あのときはあのとき」でさらりと反古にして「これが日本の政治文化です。人生いろいろ」と居直るというのも「あり」ということにはならないのであろうか。
この点をぜひご検討願いたいものである。
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