淡路島の洲本市立図書館で講演会。
主宰は図書館なのだけれど、肝煎りは甲野先生や光岡先生の講習会でよくお目にかかり、私の朝日カルチャーセンターの講演も熱心に聴講してくださった洲本高校の山田先生と豊田先生のお二人。
炎天下、芦屋から洲本まで明石大橋をわたって1時間ちょっと。芦屋から梅田まで2号線でゆくのとあまり変わらない。
洲本のインターまでお迎えに来て頂き、会場の市立図書館へ、ここはカネボウのむかしの紡績工場跡を再利用した建物で、赤煉瓦の外壁がそのまま残ってたいへんシックである。
館長の近藤さんと豊田先生の主治医で漢方もやっておられる日笠先生にご挨拶をしてから(日笠先生ご本ありがとうございました)、さっそく講演。
演題は「子どもは判ってくれない」。
先生方からのリクエストで、おもに教育問題を中心にお話する。
ひごろの持論であるところの、「教養とはマップする力である」と「思春期におけるシャイネスの復権」というお話をさせていただく。
講演というのをこの二年間にずいぶんやった。なんでもそうだけれど、場数を踏んでくるとだんだんコツがわかってくる。
90分一本勝負的な大ネタをかけるのは聴衆に過分な負荷をかけることになって、よほどコアなオーディエンス以外は避けた方がよろしい。
大ネタだとどうしても途中で、抽象的な概念に頼った論理的な「いのちがけの跳躍」が必要だが、よほど助走をうまくつけて、「せーの」で飛ばないと、その部分でしばしば聴衆の大半が脱落してしまう。
「テイクオフ」で搭乗に失敗してあとに置いておかれたお客さんというのも気の毒であるし、ほとんど誰も理解されない話をしているこちらも不幸せである。
だから、講演では、10分単位くらいの一話完結の「小ネタ」を五つ六つ繋ぐことにしている。
小ネタとして選定されるのは、具体的な出来事に取材した「なんとなく気持ちの片づかない話」である。
サキの短編みたいな「不思議な味わいのする、オチのない話」がネタとしては最高なので、私はいつもネタを探している。
良質のネタに出会うとネタ帳につけておいて、「いつか使ってやろう」と熟成させておくのである。
講演では、今回最近仕込んだ「誤字ネタ」をご披露させていただく。
これは某ゼミ生のレポート中に出現してきたものであるが、当今の若者たちの自閉的傾向を論じた文中で、「外部に閉ざされた個人まりしたライフスタイル・・・」という一文に出会って一驚を喫したのである。
思わず「『まり』って誰なの!」とツッコミをいれたくなるところがまことにオープンでかわいい誤字である。
「個人まり」には数年前の「無純」とともに、「誤字大賞」を差し上げたいと思う。
(そのあとの懇親会の席で、とある先生から「しゅうしょうろうばい」という四文字熟語を書かせたところ「終章老灰」というドラマティックな誤字を記した高校生があることをうかがった。どこにもお茶目な子はいるものである。正解は「周章狼狽」)。
「最近の子どもは教養がない」のはどうしてなのかという問いから始めて、均質的な社会集団への収斂、異他的なものへとのコミュニケーション能力の低下、未婚晩婚化の加速・・・といった問題を「思春期におけるシャイネスと修養のたいせつさ」という(佐藤学先生からヒントをいただいた)結論に流し込む。
90分しゃべってから、山田先生の奥様のご案内で、日本発祥の地であるところの「おのころ島神社」に参拝する。
古事記によれば、イザナキノミコトとイザナミノミコトの二柱の神が、天の浮橋に立ち、天沼矛をさしおろして海水をかきまぜると、ひきあげた矛の先からしたたりおちた塩がかたまって、オノゴロ島ができ、ここから日本列島の形をなす大小八つの島、すなわち「八洲」が誕生したとされる。
謡曲『淡路』にはこうある。
「さればにや二柱の御神のおのころ島と申すもこの一島のことかよと。凡そこの島始めて大八洲の國を作り。紀の國伊勢志摩日向ならびに四つの海岸を作り出し。日神月神蛭子素盞鳴と申すハ。地神五代の始めにて。皆この島に御出現。」
というわけで、日本発祥の地というたいへんにめでたいスポットなのであり、せっかく近くまで来たのだから拝見したいということで寄り道をして頂いたのであるが、残念ながら、神社はたいへんに「個人まり」したもので、参拝者も私たち二人だけであった。
プチ観光ののち、南淡路ロイヤルホテルに投宿。部屋に荷物を置いてから、懇親会場の福良湾の海辺の寿司屋「一作」へ。
山田先生ご夫妻、豊田先生、近藤館長、日笠先生のほか、淡路の教員の方がたを中心に10名ほどのみなさんが集まっている。
今回は「鱧尽くし」である。
七月初旬の淡路島は鱧の季節。
鱧寿司、鱧の梅和え、鱧の南蛮漬け、鱧の天ぷら、はもすき・・・と、これまでの人生で食べた鱧の全量をしのぐほどの量の鱧を平らげる。
いやー、美味しい。
これまでに食べたどんな鱧よりもぷりんぷりんと太っている。
蛸といい鱧といい、瀬戸内海に棲まう獰猛なる魚介類はまことに美味。
おおいに談論風発、飽食してみなさんにお礼を申し上げて宿に戻る。
露天風呂にはいるとさすがに疲れてきて、10時過ぎにはやばやと就寝。爆睡。
早寝したので早起きする。
海岸道路を飛ばして快晴の鳴門海峡の風景を堪能しつつ、そのまま芦屋に戻る。ホテルから家まで1時間15分。
コーヒーをのみながら早速仕事。
快調に飛ばしていたのであるが、『ヴェニスの商人』の一節を引用しようと思って本棚を見るが、みつからない。
そういえば、文庫本は引っ越しのときに「適当に突っ込んでおいて」と引っ越しのお手伝いのみなさんに言って、あとで自分ひとりでちゃんと整理しようと思ってそのままにしていたのである。
これは困った。
マルクスと和辻哲郎と浅田次郎が並んでいるような分類では、端から全部見てゆかないと本が探せない。
しかたがないので、本棚大整理にとりかかる。
私の分類は「頻繁にレフェランスとして取り出す本」、「まだ読んでない本」、「ときどき昼寝のときに読み返したくなる本」、「トイレの置き本」、「一時期愛読したが、今は疎遠になった本」、「もう二度と手に取らないであろうが、なんとなく棄てられない本(献本だったりして)」。これに「哲学」「歴史」「身体論」「文学理論」「日本文学」「フランス文学」「アメリカ論」「マンガ」「死者の呪い」「ハードボイルド」などというでたらめな下位区分が加わる。
だから、同じ英語圏の作者の本であっても、シェークスピアは「英米文学」の書架にあるが、フィリップ・K・ディックは「エンターテインメント」の書架にあり、レイモンド・チャンドラーは「ハードボイルド」の書架に鎮座し、エドワード・サイードは「アメリカ論」の書架に・・・というふうに、余人には能くその配架の基準は知ることができないのである。
約二時間悪戦の末、書棚整理が終わり、最後の最後で『ヴェニスの商人』がみつかる。やれやれ。
なんで『ヴェニスの商人』を読みたくなったのか、忘れちゃったよ。
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(2004-07-04 16:51)