従軍慰安婦問題について考えた

2004-07-02 vendredi

久しぶりに午後何もない金曜日。
上野輝将先生による「従軍慰安婦問題をめぐる上野/吉見論争」の研究発表を拝聴する。
歴史家の立場から、上野千鶴子の「ポスト構造主義的」な歴史実証主義批判を反批判するスリリングな発表であった。
発表を聞いて感じたのは、どういう立場からものを言うにせよ、あまり話を簡単にするのはまずいね、ということであった。
話を簡単にして、「良いか悪いか」の二元論に流し込むことは政治的には有用なことだ。人々の関心を集め、世論を沸き立たせ、慣例を覆し、官僚や政治家を動かして、政治的な実効をあげるためには、「話を簡単にして、善玉悪玉をはっきりさせること」は政略的にはしばしば正しい。
しかし、短期的、地域限定的な正解といえども、さらに時間的空間的に大きなスパンを取った見た場合には、必ずしも正解とは限らない。
従軍慰安婦のような歴史的問題の場合は少なくとも三つのレベルを切り分けて考える必要があるだろうと私は思う。

第一は、政治のレベルの問題である。
この問題は日韓の歴史に刺さった「棘」のような高度に政治的な問題であり、その処理を誤ると今後の日韓関係に取り返しのつかない禍根を残すことになる。
だから、国益を考慮するならば、望ましい政治的決着は、日韓両国政府と両国国民がこの事件を奇貨として友好と信頼を深めることができるようなかたちのものでなければならない。
この国益レベルでの判断は、「結果として」外交関係が良好なものに転じるならば、極端な話、どんな解決策でもよい。
かりに従軍慰安婦問題についての歴史的事実の解明が完了していなくても、従軍慰安婦の中に個人的に「それでは納得がゆかない」という人がいても、両国民のマジョリティに「これで日韓関係は好転する」という見通しを保証するような決着案がみつかれば、それを選ぶに逡巡する必要はないということである。

第二は歴史学のレベルの問題である(今日の論点はこのレベルに限定されていた)。
それは公文書もオーラルヒストリーも含めて入手しうるかぎりの史料を網羅し、それに精密な史料批判を加え、「何が起きたのか」を可能な限り客観的に再構成する作業である。
この作業には政治的な「予断」が入り込んではならない。
「こんな史料を公開すると、日本の国益を損なうかもしれない」とか「こんな事実を発表すると、被害者の傷に塩をすりこむようなことになりかねない」とかいう主観的な斟酌を加えることは許されない。

第三は「トラウマ」のレベルの問題である。
真に外傷的な経験について、人間はそれを正確に記憶したり、証言したりすることができない。
「外傷」とはフロイトが定義するとおり、「私の正史に登録することのできぬ経験、私の言語をもっては語り得ぬできごと」である。むしろ、その経験に直面することを回避し、それを名づけることばを遠ざけることによって「私」の人格が構築されたような種類の体験である。
原理的にこの経験についての回想に「歴史的史料」としての客観性や一貫性や資料的裏づけを求めることは不可能である。
外傷的経験についての証言は繰り返すたびに矛盾し、一貫性を失う。むしろ、その事実こそが、その証言が外傷にかかわっていることの徴候ともいえるのである。
従軍慰安婦の被害者たちはその外傷的な原経験により、戦後その経験を秘匿せざるを得なかったことにより、さらにそれをカムアウトすることこそ「政治的に正しい」選択であるとするイデオロギー的圧力により、二重三重の抑圧を受けている。そのような心理的負荷の下で語り出される外傷的経験に文書史料に準じるような中立性や透明性を求めることはできない。
むしろ、フロイトやラカンが教えるとおり、それで外傷的経験が緩解するならば、「偽りの記憶」を物語ることさえ許されるべきなのである。

ごらんの通り、少なくとも三つのレベルで、私たちはそのつど違う判断基準で史料に対してふるまい方を変えなければならない
上野千鶴子のこの論件についての論の進め方には私も違和感を覚えたけれど、それは上野輝将先生がいうように歴史学の方法に対する無知ゆえにというよりは、「傷ついた人々への配慮」という「政治的に正しい」ふるまい方こそが歴史学の学的厳密性を担保するというルイセンコ主義的なその政治性に対してである。
証言者の倫理的な正しさはその証言の歴史的史料としての正しさを担保しないし、政治的な効果の適切性も担保しない。関連性はあるが、それらは「別の話」である。
上野千鶴子と歴史学者との対立点は、言い換えると「効果の達成」と「事実の解明」のいずれに優先的に軸足を置くかについての判断の差によるもののように私には思われた
トラブルは、おそらくこの問題について論じる人々が、自分はどのレベルを優先しているのかについての立場の選択にあまり自覚的でないことから生じている。
どのレベルで歴史的事件に向き合うかによって、そのつどの歴史的史料の読み方は変わってくるし、最適判断も変わってくる。
変わって当然である。
国益の確保、学術的厳密性の重視、傷ついた人々への配慮の三つの要請を同じ一つのみぶりで片づけようと考えること自体に無理がある。
国益の確保のための最適解と、歴史史料の読み方の最適解と、被害者への癒しのための最適解はそれぞれ違う基準で考量される。
それらが一致することもあるだろうが、たいていの場合は一致しない。
例えば、「新しい歴史教科書をつくる会」の諸君は、国威の発揚、愛国心の涵養を一般解として「それがふつうの国の良識ある国民のふるまい方だ」としている。
なるほど、そうかもしれない。
だが、まことにおっしゃるとおりなら、彼らがもし仮に韓国民であった場合には、同じ原理によって「従軍慰安婦問題を教科書に掲載しない日本の腐れ右翼どもに民族の怒りの鉄槌を!」というふうに呼号するはずである。
それが「ふつうの国の良識ある国民のふるまい方」だと彼ら自身が認めているのだから、そうしなければ話の平仄が合わない。
しかし、その場合、自分たちと同じ原理、同じロジックを語っているこの韓国の愛国者たちに日本の愛国者たちは諸手を挙げて同意することができるだろうか?
「立場が変わったら同意できないこと」を私たちはしばしば主張している。
それを止めろと言っているのではない。
自分は「立場が変われば同意できないことを言うような人間」であるということをいつも念頭に置いていた方がよいと申し上げているのである。
「私人としては反対だが、公人としては賛成」ということはあるし、「個人的にはそうしたいけれど、立場上できない」ということだってよくある。
「じゃあ、賛成なんだな!」とすごまれれば、「いや、一個人としては反対なんですけどね」と言わざるを得ないし、「やりたくないんだな!」と詰め寄られれば「いや、ほんとはやりたいんですけど」と弱気な言い訳もさせて頂きたい。
こういう言い訳は、けっこう大切だと思う。
「私は立場が違えば、これと違うことを言うかもしれない」という認識を持った上で「これをする」人は、自説の過大適用を自制するものだからである。
このような問題について、私が自分に課しているルールはわりと単純なものである。
それは私が今語っていることに「韓国の女子大の先生であるウチダ」は同意できるか、という問いを自分に向けて、同意してもらえそうなことだけを選択的に語ることである。
そうすると、こういうふうにたいへんに歯切れの悪い物言いになってしまうのである。
けれども、この「歯切れの悪さ」こそが知見の汎通性を支えると私はひそかに信じている。
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