アクレディテーション

2004-06-26 samedi

大学評価セミナー出席のために東京へ日帰り出張。
こういうのがこのところ多い。
世間の方はあまりご存じないだろうが、大学に対する「第三者評価」というものがこの4月に学校教育法の改定にともなって義務化された。
歴史的流れでいうと、1991年に大学設置基準の「大綱化」というものがあった。
大学を新たに作るとか、学部学科を新設再編するとか、カリキュラムを改訂するというようなことについて、それまで文部省がきびしい規制をしてきたのが緩和されたのである。
大学にフリーハンドが与えられ、そのかわり「護送船団方式」から「市場による淘汰」に原理がシフトしたのである。
平たく言えば、「大学は好きにやってよい。そのオプションの当否は文部省ではなく、マーケットが決定するであろう」ということである。
いわゆる構造改革、規制緩和(もうなんだか「死語」化しているけど)という流れのできごとである。
その背景にあるのは、第一に少子化(マーケットそのものの不可逆的シュリンク)、第二に教育マーケットのグローバル化(ぶっちゃけて言えば、世界の大学同士の「食い合い」のことであるが、「食い合い」ゲームがフェアに遂行されるためには、「統一ルール」が必要だ)。
大学の第三者評価 (accreditation) というのはこの流れのなかで登場してきたものである。
大学は事前規制が緩和されてから、「設置バブル」の趨勢にある。
審査が甘くなった分、中にはかなり怪しげな大学や学部学科もある。
ほんらいは市場が判断して、質の悪いものは淘汰されるのであるが、大学の場合はそうはゆかない。
なぜ、ゆかないのか。
その理由についてはこれまでも何度か書いたが繰り返す。
大学の場合、主たる市場はそこ教育を受けることを希望する「受験生」であり、ついで、卒業生を「製品」としてお買いあげになる「就職先」である。
いくら就職先企業での評判がよくても、受験生が集まらなくては、大学はつぶれる。
逆に、受験生さえ集まれば、大学はいくら手抜きな教育で、粗悪な「製品」を世に送り出しても当面安泰である。
ここに「ねじれ」がある。
通常の工業製品のようなものの場合、市場というのは「消費者」のことであり、材料は金さえ出せば、いくらでも買える。
ところが、大学の場合では、「材料」自身がどの「工場」で加工されたいかを選ぶのであり、「工場」が「材料」を買うことはできない。
ここが通常の工業製品の製造プロセスと違うところである。
「材料」が集まらなくては、いくら立派な製造ラインができていても、どれほど消費者がその製品を渇望していても、その「工場」は淘汰される。
いきおい、大学は、いかに受験生に選ばれるかを優先的に配慮し、どのような教育を行ってすぐれた最終製品を世に送り出すかということはとりあえず副次的な関心事となる。
映画のオープンセットではないけれど、建物の正面だけはやたら立派だが、一歩入ってみたら、ベニヤ板に描いたペンキ絵だった・・・ということが大学の場合しばしば起るのはそのせいである。
そういう「オープンセット」的な体質をもともと持っていたところに、規制緩和の設置バブルである。シュリンクしたマーケットを奪い合って、この「前面だけ煉瓦造りで、中はベニヤ」みたいな教育サービスがわさわさと出現してきた。
それというのも、受験生というのはまことにナイーブなみなさんで、「ベニヤ板のペンキ絵」のようなものにでも(というか、ペンキ絵のようなものにほど)ころりと騙されてしまうからである。
たしかに、予備校や受験産業は大学情報を提供してはいるが、それは「入りやすさ、入りにくさ」についてのデジタルな情報としては正確だけれど、その大学における教育のクオリティについては、ほとんど言及していない。
『大学ランキング』のような本もあるけれど、偏差値と就職率という「入り口と出口のデータ」は示されているが、大学四年間の教育サービスの内容そのものについての公正な評価は望むべくもない。
そこで第三者評価というものが要請されることになったのである。
第三者評価の起源は、遠く18世紀の英国で、海外航路を運行する船舶の保険料を決める「格付け」のためにロイドが始めたのが最初と言われている。
大学の第三者評価は19世紀のアメリカで、大学が乱立し、ついに「金で学位を売る」いわゆる degree mill(学位工場)というものが出現してきたので、これを規制するために「格付け」をする必要が生じたところから始まった。
日本における第三者評価も、基本的なねらいはマーケットが「正しい選択」をできるように教育のクオリティについての適正な情報を開示することにある。
しかし、この質保証ということについては、ほとんどの大学人はまだその意味を理解していない。
第三者機関による質保証(アクレディテーション)というのは「プロダクツ」についてではなく「プロセス」についてなされるものである。
たとえば、財政評価という項目があるが、ここで優先的に評価されるのは、「金があるかないか」ではなく、「財務内容についての情報が開示されているか」「公正な監査システムが機能しているか」である。
なぜなら、「今、財政的に余裕がある」ということは、それだけでは「将来も余裕がり続ける」ということを担保しないが、「財務についての情報が開示され、公正な監査がなされている」ならば、「将来的にはいまよりも財務状態が好転する」蓋然性が高いからである。
アクレディテーションというのは、この「反省的契機をビルトインさせているために、質の向上についての蓋然性が高い」という事実についてなされるのである。
比喩的にいえば、質保証というのは、「微分」的なものである。
あるいは、ヘーゲル的な意味での「自己意識」のことである。
といえば、わかる人にはすぐわかるが、わからない人にはわからない。
この話をしだすと長くなるから、また今度。

葉柳先生の日記を読みに行ったら、たいへん教育的なことが書いてあったので、ここに採録しておきたい。
学生諸君は刮目して読むように。(途中に「十来る読めば」というフレーズがあるが、これはどういうことか私にもわからない)

(ここから引用)
私が大学に入った次の年(だったと思う)に、浅田彰の『構造と力』と中沢新一の『チベットのモーツアルト』が出版され、ニューアカ・ブームなるものが湧き起こった。だが正直に告白すれば、『構造と力』は第一章(大学論のようなもの)を除いてはよくわからなかったし、『チベット…』もカスタネダが出てくるところあたりまでしかついていけなかった。
 学生寮の上の階に住んでいた我が人生の師青木秀樹さんに、相談すると、「構造主義や記号論についての基本文献を読んでいないと、浅田や中沢のようなポスト構造主義の論客の議論は理解できないよ」と教えてくれた。
 そこで、まずはレヴィ=ストロースやソシュールの翻訳書を手に取ったのだが、これまた部分的にしかわからない。
 青木さんに再度悩みを打ち明けると、山口昌男や丸山圭三郎の著作を紹介してくれた。
 山口の『文化と両義性』や丸山の『ソシュールを読む』は頭の中にすんなりと入ってきた。日常生活の中で漠然と感じたり考えたりしていたことが、「中心と周縁」、「意味するものと意味されるもの」といった概念装置を媒介にすることで、くっきりとした輪郭をもって浮かび上がってくるというのは実に印象的な経験だった。
 それからしばらく私は、こうした概念装置の手助けを借りて、自分の生活世界の様々な現象を説明することに熱中した(たぶんうっとうしいやつだったと思う)。
 (半年くらい経って、浅田や中沢の著作を再読してみると、今度はあまり抵抗なく読み進むことができた。レヴィ=ストロースやソシュールも十来る読めば、理路を終えるようになった。最初に読んだときどうしてあそこまでわからなかったのか、わからないほどであった。)
 しかしながら、しかるべき概念装置を手に入れれば生活世界の全てが説明できる、という高揚感はそう長くは続かなかった。概念とは見るための道具であると同時に、見ないための、さらに言えば、抑圧の道具であることが「見えて」きたからだ。
 それでもしばらくは、衣装/意匠を変えながらも、概念装置を用いで現象を説明しつくしたいという欲望を完全に捨て去ることはできなかった。しかし、この衣替えという行為を通じて、「選択と排除」、「見えることと見えないこと」のメカニズムを体感することができた。
 このようにして私は、概念装置を通じて現象の全てを説明することは原理的に不可能であるということ、何かを見ることは別の何かを見ないことと同時的に生起するということ、そして、この自己限定こそが研究という行為を可能にするのだということを理解した。このとき初めて私は素人から脱却するための初めの一歩を踏み出したのだと思う。
(以上引用終わり)
葉柳さんはこのところ一貫して「研究者とは何か?」という原理的な問題を追い続けている。
若い研究者諸君ならびにウッドビー研究者諸君は彼のサイトを熟読すべし。
http://hayanagi-semi.web.infoseek.co.jp/cgi-bin/omotediary/ezjoho.cgi
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