予告編と新刊ご案内

2004-06-24 jeudi

風邪でペースダウンしていた仕事が、体調が上向きになってきたので、順調に片づき始めた。

『他者と死者-ラカンによるレヴィナス』(海鳥社)の初校が終わる。大きな直しはもうないから、あとは山本画伯の装幀を楽しみにするばかり。
ウチダの「レヴィナス三部作」の第二部にあたるこの本は9月頃に刊行予定。
ドムナック『構造主義とは何か』の解説のネタも実はこの本の第二章で触れる「ラカンとレヴィナスの同時代性」からアイディアを流用させてもらったのである。

医学書院『死と身体』の「まえがき」40枚もやっと書き終わる。
身体と時間の関係を考えているうちに出てきた「時間は逆流する」というアイディアと、ほんとうに重要な概念について人間は必ず「相反するふたつの意味を同時に含む語」を当てるという経験則を、「えいや」とばかりに鍋にたたき込んで、ぐつぐつ煮たような論考。
論としての完成度は低いが、着眼点のとんがり具合は、ここ数ヶ月でいちばんである。
というわけで、「まえがき」のさわりだけ、予告編でお見せしましょう。

わかりにくいまえがき
科学者というのはいつも世界が単純にできていると思いたがる。そして、その期待は決まって裏切られる。
   Gregory Bateson, Steps to an Ecology of mind
1・あべこべことば
 「適当」というのは正確にはどういう意味であるのか明らかにせよと、以前スイスから来ていたエリザベス君に問いつめられたことがある。
 「適当な答えを選べ」という場合の「適当」は「的確な」とか「正しい」という意味だけれど、「適当にやっといてね」とか「適当なこと言うな」とか言う場合の「適当」は「あまり的確でない」とか「あまり正しくない」という意味である。いったい日本人諸君は何ゆえに、このように同一語をして相反する意味に用いるのであるのか、そのあたりの理路を整然と論ずべし、と畳みかけられて困(こう)じ果ててしまった。言われてみれば、ご指摘の通りである。こちらもうっかり気づかずに使っていたが、たしかに「適当」というのは、ずいぶん「適当な」使われ方をしている。まことにいい加減なものですね、というときのこの「いい加減」も、「適正な程度」という意味ではなく、主に「適正でない程度」という意味で用いられている。というわけで、エリザベス君には、結局得心のゆくようなご説明をすることができずに終わってしまった。
その後も、ずっとこの問いがひっかかっている。
どうして、同一語が反対の意味を持つ必要があるのだろう? いったい誰がそのことからどのような利益を得ているというのだろう? そのことが、それほどに非合理的なことであるとしたら、どうしてその陋習(ろうしゅう)を改善しようと朝日新聞なりNHKなり文科省なりが提言してこないのか?
 どうも不思議である。
しかし、そう思ってあたりを見回してみると、私たちが日常使っている表現のうちには、反対の意味を同時に含意している語が思いの外に多いことに気がついた。
 例えば、人称代名詞。
 私が東京から関西に来て驚いたのは、大阪の人たちが「自分」を「あなた」という意味で用いることであった。「ジブン、騙されてんとちゃう」というのは、「あなたは騙されているのではないか」という意味である。
 『仁義なき戦い』で菅原文太が小林旭に向かって、「のうアキラ、こんなんが村岡の跡目ついだらいいじゃないの」というときの「こんなん」というのは、「こちら」というのが原義であろうが、文脈を勘案するに「あなた」の意らしく思われる。どうして「こちら」が「あなた」になるのかよく分らない。
 「手前」というのもそうだ。「てまえ」と読めば一人称、「てめえ」と読むと二人称になる。リバーシブルだ。
「あなた」にしても、本来は「彼方」の意であるはずだから、目の前にいる人の呼称としてそれほど適切とも思われない。
 考えるとどれも納得のゆかない話である。だが、別にこれは私だけがひとりこだわっていることではなく、日常生活における「変なこと」にたいへんこだわりのあったフロイト博士も、この点に着目されて、つねのごとき洞見を語られている。
 「多くの言語学者たちは、最も古い言葉では、強い-弱い、明るい-暗い、大きい-小さいというような対立は、同じ語根によって表現されていたと主張しています(『原始言語の反対の意味』)。たとえば、エジプト語のkenは、もともと『強い』と『弱い』という二つの意味をもっていました。対話の最、このように相反する二つの意味を合わせもつ言葉を用いるときには、誤解を防ぐために、言葉の調子と身振りを加えました。また文書では、いわゆる限定詞といって、それ自体は発音しないことになっている絵を書きそえたのです。すなわち、『強い』という意味のkenのときは、文字のあとに直立している男の絵を、『弱い』という意味のkenのときは力なくかがみこんでいる男の江を書きそえたのです。同音の原始語をわずかに変化させて、その語に含まれた相反する二つの意味をそれぞれにあらわす表記ができたのは、後代になってからのことです。」(S・フロイト、「精神分析入門」、懸田克躬、高橋義孝訳、『フロイト著作集1』、人文書院、1971年145-6頁)
 古代エジプト人はkenという発音を微妙にピッチや身振りを変えることで、「強い」という意味と「弱い」という意味に使い分けていたわけである。ずいぶんと七面倒なことをしたものだが、これは別に古代エジプトだけに限った話ではなく、同じ現象は、実は古今東西、言語のあるところではどこでも観察されるのである。
フロイトは同種の事例をいくつか列挙している。ラテン語の altus は「高い」と「低い」の二つの意味があり、sacer には「神聖な」と「呪われた」の二つの意味がある。英語の with は「それとともに」と「それなしに」の両方の意味をもっていたが、今日では前の意味でのみ用いられている(withdraw「取り去る」やwithhold「与えない」という動詞には「それなしに」という古義の名残りがとどまっている)。
 もちろん日本語にも同じ現象は存在する。
だいぶ前に見たテレビドラマで、主人公の少年(前田耕陽)が好きな少女(中山美穂)に向かって「オレのこと好き?」と訊ねる場面があった。中山美穂が「うん、好きよ」と答えると、前田くんはその答えに納得せず、こう言った。「その『好き』じゃなくて!」
 なるほど、と私は深く得心した(エリザベス君のご指摘以来、私はこういう事例にたいへんこだわる人間となったのである)。
「好き」というような、誤解の余地のありそうもないことばでさえ、言い方ひとつで、「異性として好き」という意味と、「異性として好きなわけではない」というまったく反対の意味を取ることができる。
しかるに、今のケースでは、少女の答えた「好き」が「人間としては好きだけど、異性としては興味がない」という意味であることを、少年はどうやって瞬時のうちに識別したのであろうか?
これはみなさんご自身の経験に照らして考えればすぐ分るはずである。
前田くんが中山さんの「好き」を「異性として興味がない」という意味であると一瞬のうちに判別できたのは、「好き?」という問いかけと「うん、好き」という答えの間の「間」が有意に短かったからである。
「オレのこと好き?」という問いに対して、「友だちとしては好きだけど、男として見たことないから」という場合には「うん、好きよ」。「異性として好き」という場合には「・・・うん、好きよ」と、こちらの場合は、「・・・」というわずかコンマ何秒の「ためらい」が入る。つまり、私たちは、問いかけに対する回答のわずかな遅速の差によって、それがエロティックな言明か非エロス的な言明であるかを識別しているのである。
ずいぶん面倒なことをするものである。
どうして、人間は「異性として好き」(「好き1」)と、「人間としては好きだが、異性としては興味がない」(「好き2」)に別の動詞を割り振ることをせずに、対立する意味を同一語のうちにとどめるに任せたのであろう? 新語があふれるほどに発明されているのに、どうして「好き」のような、語義解釈の間違いがときに死活的に深刻な帰結をもたらす語についてだけは新語の創造をどなたも提言されないのか?
ここにはどうやら人間存在の根本にかかわる重要な問いがひそんでいるように思われる。私はこの問いを次のように定式化してみたいと思う。
人間はどうして、わざわざ話を複雑にするのか?

予告編おわり。
どうです、どこにゆくかぜんぜん見当のつかない話でしょ?
このあとグレゴリー・ベイトソンのダブルバインド理論、フロイトの夢判断、ラカンのパロール論、ニーチェの超人論、レヴィ=ストロースの「冷たい社会」論などをみんなまとめて「逆流する時間とあべこべことば」というスキームに流し込んで、あっと驚く結論に到達するのである。自分で読み返して、われながら面白かった。
『死と身体』も秋には出ます。これは『他者と死者』とともに本年度の超オススメ本。

『街場の現代思想』(NTT出版)今年最初のウチダ本もいよいよ7月1日に関西の書店三店舗で「先行発売」(そんなものがあるんだね)。
一般書店に出るのは7月12日から。
7月1日に「先行ロードショー」をしてくれるのは三宮と西宮のジュンク堂と梅田の紀伊国屋。
これは『ミーツ』に連載した「街場の現代思想」を加筆修正して、さらに書き下ろしを加えたもの。
笑えて、泣けて、ちょっぴり悩めて、それでお値段は1400円とぐっとリーズナブルだ。
来週の木曜発売。阪神間キッズ&ガールズは書店に走れ!
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