人工臓器とコピーキャット

2004-06-23 mercredi

火曜日の授業はたいへんに愉しい。
四年生のゼミは「人工臓器」、大学院は「シリアル・キラー」。
毎度、たいへんに刺激的な主題である。
人工臓器の話は転々として、「整形」はよいのか、「不老不死」を望むのはよろしいのか、「身体加工」はどこまでが可能か・・・と興味深い議論が展開したが、個人的にいちばん面白かったのは、「心臓移植をすると人格が変わる」という話。
これは臓器移植法案の審議のころにもときどきメディアをにぎわしていたが、心臓移植をされたレシピエントがドナー(誰だか知らないひと)の記憶や経験をフラッシュバックするという話を何度か読んだことがある(レシピエントの女性ができないはずのバイクの運転をしたとか)。
その説明として、心臓の細胞には感情や記憶が断片的に残っているという説があるそうである。
なるほど。
そういえば、「心が痛む」とか「心にしみる」とかいう表現は世界中の言語にある。
非常に強烈な感情を経験すると、私たちの心臓はどきどきする。
そのような経験を積み重ねれば、ある種の感情(それは内分泌の変化や神経系のパルスの変化をともなう)と心臓の細胞のあいだに習慣的なリンケージが形成されるというのはありそうな話だ。
パブロフの犬と同じで。
その心臓が移植されると、「心臓と感情のリンケージ機能」も断片的に移植されるということは理論的にはあってもおかしくない。
そう思いません?
私たちは「心で感じたり」、「肚を括ったり」、「腑に落ちたり」、「肝が太かったり」、「腰が砕けたり」、さまざまな社会的なふるまいと臓器の状態をリンクさせている。
こういう臓器をふくむ常套句には、たぶんそれなりの解剖学的根拠があるのではないだろうか。
むかしは「腹が立った」が、その後「胸がむかつく」になり、さらに「頭に来た」になるというふうに、怒りの感情とリンクする臓器も時代とともに変化している。
私が子どもの頃は「おへそで茶を沸かす」という言い方がまだもよく使われていた。
もう20年くらい、この表現を聞いたことがない。
若い方はご存じないだろうが、これは笑うと丹田が充実して、おへそのまわりだけ体温が上がるからである。
たぶん、「丹田が熱くなるほど笑う」という笑い方を日本人はもう身体技法としては失ってしまったのであろう。
「武者震い」というのは、戦場でいざ合戦というときになると、人間の身体は激しく震動することを言うが、このときには、鎧のパーツががしがしと触れあう。それが敵味方ふくめて戦場全体で同時に始まるので、「ごおおお」という金属音が戦場中に響き渡ったと言われている(見てきたわけじゃないけど)。
そういうふうに、いろいろな身体操作が失われると同時にある種のメンタリティや感情も失われてゆくわけである。
逆から考えると、ある種の身体部位が(たとえば臓器移植で)自律的に活動したときに、それまで自分が経験したことのなかった心性や情緒の断片がフラッシュバックするということは、たしかにありそうな気がする。
まあ、こういう発想は医療工学の人とか絶対しないでしょうけど。

大学院はアメリカではどうしてシリアルキラーが構造的に生まれるのかという話。
世界の人口の5%しかいないアメリカが世界中の連続殺人者の80%を提供している。
となると、これは一種の「風土病」と考えてよいだろう。
その原因についてはいろいろと意見が出たけれど、私はこれをある種の「コピー志向」ではないかと考える。
ご存じのとおり、シリアルキラーに関しては「プロファイリング」という捜査方法の有効性が知られている。
プロファイリングを基礎づけるのは、端的に言えば、「シリアルキラーは自分と人種、年齢、学歴、職業、家庭環境などが似ている先行者と非常に似た殺人方法を採用する」という経験則である。
シリアルキラーは本質的に、先行するシリアルキラーの「コピーキャット」だということである。
だからこそ「コピー」を「オリジナル」と照合すれば、犯人像を特定できるのである。
殺人というのが、ある種の「アート」だとするならば、シリアルキラーには「オリジナル神話」というものはない。
むしろ、いかにオリジナリティーを消すか、いかに殺人そのものと殺人者のパーソナリティが無関係か、殺人に必然性がないかが競われているようにさえ思われる。
先行者ばかりか、シリアルキラーは自分自身を無限にコピーすることにも固執する(だから「シリアル」になってしまう)。
でも、なんでコピーなんだろう?
たぶん、それは「コピーキャット」の方がオリジナルのシリアルキラーよりも「もっと邪悪」だからだ。
だって、そうでしょ?
怨恨とか利害とか一時の怒りとか、そういう「世俗的動機」で行われる殺人は情状酌量の余地がある。つまり、それほど「邪悪」ではない。
けれども、自分の何の関係もない人間、何の恨みも利害もない人間を、ただ「人まね」をするためだけに殺すということになると、これは「邪悪さ」の次数が一つ高い。
つまり、殺人においては「オリジナルであること」(それは殺人者のパーソナリティがどこかに関与するということだ)よりも「コピーすること」(そこには殺人者のパーソナリティはほとんど関与しない)の方が、いっそう非人間的であり、邪悪度において純粋だということである。
シリアルキラー=コピーキャットのみなさんは、そのように個性をかき消すことによって、「純粋な邪悪さ」を表象しようとしているのではないか。
なぜか?
それについてはさらに思弁が暴走したのであるが、それはまた今度。
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