銃と弁護士

2004-06-16 mercredi

専攻ゼミは「弁護士」、大学院のゼミは「トランスパーソナル心理学」。
少し前には大学院で「参審制度」がテーマに出た。
学生諸君のあいだには司法制度を比較文化的な視点から考察したいという志向がどうやら芽生えているようである。
訊いてみるとその理由の一つは「弁護士を主人公にしたTVドラマがふえている」からだそうである。
なるほど。
『アリー』はずいぶん流行ったし、FOX―TVでも弁護士事務所ものの連続ドラマをやっていた。日本の民放でも最近いくつかドラマが続いたらしいし、「行列のできる・・・」という弁護士が視聴者の持ち込む事件を裁定するヴァラエティも高視聴率らしい(見てないけど)。
そのせいで弁護士という職業が身近なものに感じられてきたのだそうである。
そうですか。
弁護士問題は例によって日米比較。
アメリカは100万、日本は2万。
訴訟件数はアメリカが1800万(いつのまにか150万件増えてた)。日本が42万件。
いずれもほぼ50:1の割合であるから、ここに「弁護士数と訴訟件数は正の相関関係にある」という仮説が成り立つ。
弁護士の増員は訴訟件数の増加を結果するであろうが、それによってよりいっそう私たちの社会は公正で住みやすいものになるのかどうか。
私にはよく分らない。
もちろん島根県や鳥取県のように県内に弁護士が26人とかいうのはいくらなんでも無医村みたいでなんとかしたほうがいいとは思うけれど、その一方で、東京には9700人が集中しているのを見ると、弁護士の絶対数をふやしても、この比率そのものは大きくは変わらないような気がする(島根の弁護士数を100人に増やすあいだに、東京の弁護士は40000人に増える勘定だ)。
この極端な偏在状況はこの先どうやってコントロールするつもりなのか、よく分らない。
前回参審制度のことを書いたら、いろいろな方からご意見を頂いたので、しばらく考えてみたが、やはり法制度を考えるときに、「予防的」な発想を取るか「対症的」な発想を取るか、その見きわめがどこかで必要な気がする。
「予防的」というのは、社会的トラブルを「事前に回避する」ためのふるまい方の習得にリソースを優先的に集中させる考え方である。
「対症的」というのは、トラブルが「起きた後」に理非をあきらかにする信賞必罰制度の運用を優先的に配慮する立場である。
誰が考えても分るけれど「予防的」なシステムの整備と運用に要するコストは、「対症的」なシステムの整備と運用にかかるコストよりもはるかにわずかで済む。
例えば、暗い道を歩いて「ワルモノ」にホールドアップされるということがある。
この場合、迅速かつ効率的にワルモノを逮捕し、拘禁し、裁判を行い、刑を執行し、社会復帰させるまでに要する社会的コストと、「こんな暗い道を歩くと、ワルモノにホールドアップされる可能性があるから、遠回りだけど安全な道を通ってかえろ」とそろって判断できるようなリスク回避の方法を市民に学ばせるために要する教育コスト(プラス「遠回りする」ために費消する、ご本人の時間と体力のロス)を比較すると、誰が考えても、圧倒的に後者の方が安上がりである。
「暗い道で弱そうなやつを見るとついホールドアップしたくなっちゃうようなタイプの人間」を構造的に生み出すような社会的要因についての学術的研究とそのようなファクターの軽減が効果的に推進されれば、そもそもホールドアップ事例そのものが減少するはずであるから、教育コストも体力のロスもさらに少なくて済む。
つまり、犯罪に関して言えば、犯罪が起る「前」と「後」では、つねに「より前」に投資する方が有効だということである。
私は根っからビジネスマインデッドな人間なので、どうしても「費用対効果」ということを考える。
単独で検討した場合にどれほど整合的で議論の余地なく正しいソリューションであっても、「それよりもっとずっと安上がりなやり方があったら、そっちの方がいいんじゃないの?」という問いをつねに差し挟んでしまう。
話を訴訟に戻すけれど、アメリカでは、企業が訴訟で懲罰的な罰金を受けるケースが相次いだために、どの企業も製造者責任を問われて消費者から訴訟に持ち込まれないように対応策を講じている。
乾燥剤に「これは食べられません」と書いているのを見たときは「へえ」と思っただけだったけれど、薬局でもらった薬に「この包装は服用してはいけません」と書いてあるのを見たときは驚いた。
だって錠剤のカプセルの包装って、アルミ箔なんだから。
どこの世界に錠剤とアルミ箔をいっしょに服用する粗忽者がいるものかと思ったけれど、これが麗々しく印字されているということはどこかで(たぶんアメリカで)、アルミ箔を呑み込んだ消費者が製薬会社を訴えて莫大な賠償金をせしめたという事実があるからだろう。
しかし、こうやって食品薬品の包装に「これは食べられません」と印字し、プラスチック製品に「赤ちゃんの近くに置かないでください」と印字することによって企業が負担し(製品価格に上乗せされて、結局消費者が負担している)「しなくてすんだ」印刷コストは、トータルではその賠償金額をはるかに超えているはずである。
だから、「食べられません」と印字するのは、ぜんぜん「予防的」には機能していない。
この場合の、予防的な措置というのは、「食べられるか食べられないかよく分らないものを口に入れる時は、事前に年長者や専門家の忠告を仰ぐ」という習慣を子どものときから教えておく、ということである。
この習慣づけは汎用性が高いから、この教育投資から社会が受け取る対価は少なくない。
私が思うのは、アメリカ社会というのは「予防的」な発想というのがどうも構造的に「できない」国ではないか、ということである。
「すでに起きてしまったこと」について、これを事後的に調整する社会能力はかなり高いけれど、まだ顕在化していないリスクやロスについて、顕在化する以前にそれを回避することに社会的リソースを投入することには、なんだか「構造的に頭を使う気がない」ように思われる。
例えば、9・11の同時多発テロにしても、テロに先だって、その予兆があり、情報も上がっていたのに、司法省もCIAもFBIもほとんど真剣な対策を取らなかったことがしだいに暴露されてきている。
これを行政の怠慢であるとか、戦争待望論者による「情報の握りつぶし」であるとかする説明を聞くけれど、私はそういうのではないような気がする。
ある近代国家の治安維持システムが組織的に麻痺したという場合、ひとにぎりの政治家や官僚の「陰謀」によってこれを説明するのはどうしたって無理がある。
むしろこれはアメリカ社会が「〈事件〉が起きるまでは予防的措置は特に講じず、〈事件〉が起きたあとに、迅速かつ効果的にリアクトする」というリスクマネジメントのスタイルをほとんど宿業として背負っているせいではないかと私は考えるのである。
アメリカは銃社会である。
銃をアメリカ人は本質的に「予防的」なものであると考えている(それはそのまま「核抑止戦略」という考え方に通じている)。
銃がある「おかげで」(つまり「うかつな権利侵害はときに致死的な報復を招く」蓋然性がアメリカは世界のどの国よりも高いから)、起こりうるさまざまなトラブルが「事前に」回避されている、というふうにアメリカ人は考えている。
1791年制定のアメリカ憲法修正第二条では「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、国民が武器を保有し、携帯する権利は、これを侵してはならない」と定めている。
イギリスからの独立戦争を戦ったのは「アメリカ正規軍」ではなく「民兵」(militia あるいは Minutemen とよばれた)だったからである。
1775年にイギリス正規軍と最初に銃撃戦を展開したのは、レキシントンの民兵たちである。
民兵というのはいわば「パルチザン」であり「ゲリラ」である。
ふだんはふつうの市民だが、一旦緩急あれば、武装して編成され、世界最強の軍隊とも五分で勝負できる・・・というのがアメリカ市民の武装についての基本的な考え方である。その武装権が憲法で保証され、今に残っている。
イギリスの圧政から逃れたばかりの市民たちは、武器を独占した職業軍人が権力的に機能するリスクを恐れて、自衛のための武器を所持することを市民の権利として請求したのである。
アメリカ市民たちは「銃が遍在している社会では、銃が偏在している社会よりも、市民の権利はより効果的に守られる」という判断を下した。
つまり「隣人がいつ私を殺す圧制者になるか分らない」というのがアメリカ憲法修正第二条の根底にある人間観なのである(前に書いたように、同じ発想は独立宣言にも横溢している)。
このシビアな人間観そのものはそれなりの経験的な根拠のあるもので、私はこれに異論はない。
けれども、「だから、致死的な報復装置を準備し、誇示することが抑止的に機能する」という発想には軽々に与すことができない。
「隣人がいつ私を殺す圧制者になるか分らない」から、「あらかじめ仲良くしておく」というオプションだってありうるし、「簡単には人が殺せないように、まとめて武器をどこかに片づけておく」という発想だってあると思うけれど、そういう選択肢はあまり検討されなかったらしい。
いずれにせよ、この始原における「ねじれ」がそれ以後のアメリカの「紛争制御」のすべての仕方に伏流しているように私には思われる。
司法の話にまた戻すけれど、私が言いたかったのは、アメリカにおいて訴訟は「口頭による決闘」であり、弁護士が有する法律知識は「知的な銃」とみなされているのではないかということである。
憲法修正第二条を持っているような社会と日本の法意識の隔たりは、想像されるよりはるかに深いと私は思うけれど、どうなのであろうか。
おっと、トランスパーソナル心理学について書くスペースがなくなってしまった(これも面白い話だったんだけど)。
それはまた今度。
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