頭がドライブ

2004-06-14 lundi

下川正謡会の「反省会」とて、リッツカールトンで昼食会。
ゆうべ遅くまで『スラムダンク』を読んでいたので、寝不足。
『スラムダンク』はリアルタイムで単行本を途中まで買っていたが、完全版が出たのを機に、全巻買い揃えを企画した。ところが、13巻までいったところで、何巻まで買ったのかを忘れて、本屋に行くたびに「ううう」と迷って買いそびれていたのである。
というのは、それまでに『スラムダンク』で同一巻二度買いを二度も(!)経験したからである(あの本はカバーデザインが各巻そっくりなんだよね)。
『バカボンド』でも同一巻二度買いをしたことがあり、どうも井上雄彦の高額納税に私は貢献しすぎているようである。
これというのもコミックにカバーをかけて中を読ませないようにしているのがいけないのである。
一度「同一巻二度買い」の苦渋を経験すると、多くの消費者は「買い控え」に走る。結果的には立ち読み防止が総需要そのものを抑制しているというのはコピーガードのCDの場合とよく似ている。
おとといの夜に寝苦しくて、つい『スラムダンク』を1巻から読み出したらとまらなくなって、14巻からあとが読みたくてしかたがない。昨日三宮まで行って、14巻から20巻までまとめ買いをする(全24巻なのだが、重くて持てない)。ついでに名越先生原作の『ホムンクルス2』も買っておく。

山のようなマンガを『ジェイソンX』を観たあとに読み出したのが災いして、気がついたら午前3時。
ふらふら起き出して、朦朧としたまま反省会へ行き、社中のおばさま方、“不眠日記” のオガワくん、飯田先生たちと下川先生を囲んで昼酒を酌みつつ歓談。
下川先生と「教え方」の要諦についてお話ししているうちに興味深いことに気づいた。
私も合気道を教えているのでよく分るけれど、身体操法を教えるのは、ある意味で「簡単」である。
どれほど飲み込みの悪い人でも、どれほど動きの鈍い人でも、どうやったらうまくなるかという道筋は教えている方にはよく見えるからである。(下川先生はきっぱりと、「私の言うことを聴いていれば、誰でもうまくなれる」と断言されていた)。
おっしゃるとおり、どんな人でも、身体運用については師匠の指導に従っていれば、いずれ必ずうまくなる。
あるレベルまで達するのが早いか遅いかの違いはあるが、それは単なる時間の問題にすぎない。
こういう稽古をすれば必ずうまくなる、ということを教える側はきっぱりと断言することができるし、教わる側はその言葉を信じることができる。
なぜそういうことができるかというと、身体運用の場合は「うまくいった」ときの快感というのが強烈な身体記憶として、教える側にも教わる側にも個人的経験として共有されているからである。
前受け身がなかなかできないような人が結果的に高段者にまでゆくということはよくある。
それは、他の人がなんの努力もなしにできる前受け身を数ヶ月かかってようやく「できた!」というときには、その達成がもたらす身体的快感が強烈に記憶されるからである。その種の快感をそれまで経験したことがない人は、それを求めて熱狂的に稽古するようになる。
けれども、大学の専門の授業の場合は、それに類することはまず起らない。
例えば、私が教えている現代思想のような科目の場合、学生さんがその科目を1年間毎週受講した結果、何かが「できた!」というような強烈な知的達成感を味わうということは、まずない。
学問に人間を向かわせる動機づけになる強烈な身体的快感とは、強いて言うと「脳が加速する感じ」なのであるが、これは経験したことのない人間にはどうやっても説明することができないし、そもそもこの世にそのような快感があるということさえ学生たちは知らない。
でも、武道も哲学も集中的な修業や、それがもたらすブレークスルーを可能にするのは、ある段階で経験した強烈な快感の記憶であることに変わりはない。
身体運用を動機づけるのが「私の身体にはこんな動きができる潜在能力があったのか!」という発見の快感であるのと同じように、知性の運用を動機づけるのは、「私の脳にはこんなことを思考できる潜在能力があったのか!」という発見の快感である。
身体的な達成感を獲得する方途については多くの経験的データとそれに基づく適切な指導方法が存在するけれども、「脳が加速するときの快感」、鼻の奥が「つん」と焦げ臭くなり、思考に「アクセル」がかかる感じについては、書かれたものも語られたものもほとんど存在しない。もちろん、どうやったら「アクセルがかかるか」について書かれたものも存在しない。
世の中には死ぬほど頭のいい人がいくらもいる。
けれど、そういう人たちも「私は頭がいいのでたいへんハッピーです(金も入るし、ちやほやされるし、うふ)」というようなことは絶対に口にしない。たぶん、『頭がよいので、気持ちがいい』というような題名の本を書いたら、ほとんどの人が題名を見ただけで作者に殺意を抱くからであろう。
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