大学院のアメリカン・スタディーズ・ゼミ。
本日のテーマは聴講生岡崎宏樹さん(京都学園大学)の「カウンター・カルチャー」。
面白いテーマである。
60年代にリアルタイムでカウンター・カルチャーを浴びたのは、教室にいるのは、私の他には同年代の聴講生光安さんあるばかりである。
「あのシクスティーズ」がどういうふうに社会学的に定義されるのか、その学問的位置づけと、リアルタイムであの時代を生きた人間の実感のあいだには、どのような「ずれ」があるのであろうか。
さすがに新進気鋭の社会学者の分析はシャープかつ周到。
「あの時代にいなかったのに、なんでそこまで分るの?」と不思議な気分になる。
60 年代のカウンター・カルチャーが、その時代のメインストリーム・カルチャーに対する「対抗」性ゆえに、ドミナントなイデオロギー枠組みに100%規定されていたこと、そのミーイズム的傾向がそのまま 70 年代以降の資本主義に巨大な市場を提供したこと。
それを、ぴたりと指摘されてしまうと、ちょっと哀しい。
だが、ほんとうなのでしかたがない。
私の個人的印象を言えば、63 年のケネディ暗殺をひとつの指標として、「ゴールデン・エイジ・オブ・アメリカ」は終わり、以後長い退潮期に入る。
もちろん物質的な繁栄はむしろそこから始まるのだけれど、カウンター・カルチャーは、その「没落」にむかって、アメリカの多様性が失われてゆく、最初の契機である。
「カウンター・カルチャーが多様性喪失の契機である」というといぶかしむ人がいるだろう。「あれは、個人の自由と多様性を求めた運動ではなかったのか?」
違います。
カウンター・カルチャーは「抑圧的なメインストリーム・カルチャー」と「自由で多様なカウンター・カルチャー」という固定的な二項対立のうちに、それ以外のすべての多様性を流し込んだだけである。
この運動の中で、アメリカでは「自由」でありたいと思う人間の「自由である仕方」がきわめて「抑圧的に」規定されることになったからである。
ロングヘアー、破れたジーンズ、ロック、ドラッグ、フリーセックス・・・というような「自由の意匠」は選択の余地のないものだった。
クルーカットで、ブルックスブラザーズのスーツを愛用して、モーツァルトとアイロンかけとガーデニングが趣味で、かつ「自由」である人間というようなあり方は許容されなかった。
自由であるためには、幾多の不自由を忍ばねばならなかったのである。
だから、70 年代に入ってから、村上春樹が「気分がよくて、何が悪い?」と反問したのはのはこの「自由についての抑圧的なガイドライン」に対してだったのである。あの問いは、「カウンター・カウンター・カルチャー」だったのであるけれど、それはまた別の話だ。
私が「没落」とういのは、アメリカにおける「モラル」の劣化のことである。
わかりにくいかもしれないけれど、私のいう「モラル」は道学者の論じるそれとは違う。
「倫理」とか「常識」とか言い換えてもいいけれど、それは「限定された社会集団内でのみ強制的に機能し、他の集団に対しての適用を自制しなければならない行動規範」のことである。
「モラル」に汎用性はない。
ある地域、ある時代にのみ限定的に適用される限りに置いて、その成員たちを効果的に統御するけれど、その範囲を超えて「みんな、オレのモラルに従うべきだ」と言い出すと、むしろ無秩序と暴力を構造的に生み出す、そのような両義的なものである。
63,4年をさかいにアメリカの「モラル」は劇的に瓦解してゆく。
その最初の徴候がカウンター・カルチャーの登場である。
これによって、アメリカ社会は「メイン・ストリーム」と「カウンター」に二分割された。
それ以外の「あいまいな」カテゴリーは存在することができなくなった。
まず「二大陣営」にすべてが帰属させられ、中間領域がなくなる。
そのあと、一方の陣営が「最終的勝利」を収めて、集団全体が単一の価値観に統御されるようになる。
これ、どこかで見たような風景だと思いませんか?
そう、東西冷戦構造からソ連崩壊、グローバリゼーションに至る国際社会の歴程そのものですね。
60 年代にアメリカにおける反秩序的要因はまとめて「カウンター・カルチャー」陣営にとりまとめられ、70 - 80 年代に、陣営ごと根こそぎ「資本主義市場」にからめとられた。
そんなふうにして、アメリカはあれほど「うすっぺらで、暴力的な国」になってしまった。私はそう見ている。
今日出た話のなかで、ウチダ的に面白かったのは、『イージーライダー』の話。
「イージーライダー」のラストシーンの衝撃は、たぶん映画の公開から 35 年経った今でも、それなりのものだとは思う。
でも、忘れられがちなことがある。
それは、「夢のカリフォルニア」での麻薬取引で一山当てたピーター・フォンダとデニス・ホッパーがバイクを仕立てて南に向かうのは、ある意味では「予定調和のコース」だったということである。
だって、「ヤマを踏んだら、南に向かえ」というのはブッチ・キャシディ&サンダンス・キッドの時代からの「お約束」なんだから。
むかしのアウトローは銀行強盗や列車強盗をやったら、とりあえず南に向かった。
ディープサウスは「アウトローの原点」だったからである。
だから、二人は当然のようにニューオリンズに向かう。
この「アウトローの王道」を粛々と歩んでいたはずの二人の「イージーライダー」(お気楽騎手)がテキサスあたりの田舎のおっさんに撃ち殺される理由はわりと簡単だ。
「変な格好をしていたから」である。
二人は主観的には「ライダー」のつもりだった。
南部に目立つ格好をみせびらかしに行ったのではない。「自分たちのことなんか、誰も気にしないだろう」と思って行ったのである。
自分たちがごく自然な存在として受け容れられるはずの場所に、ごく当たり前の格好で乗り込んでいったのだが、乗り物が「馬」じゃなかった。
もし彼らがあの変なフリンジのついた服でも、頭にヘルメットのかわりにテンガロンハットをかぶって、バイクの代りに馬でぽこぽこ走っていたら、撃たれはしなかっただろう。
『イージーライダー』の逆説は、「馬はないでしょ、もう。これからはバイクでしょ」という西海岸「アウトロー」の意識の変化と、「『ライダー』つうたら、ふつう馬だろが」というテキサスあたりのおっさんの意識の停滞のあいだの「歴史の流れの速度差」にある。
アメリカには明治維新がなかった。
このことの重要性を日本人はあまりご理解されていない。
日本では、「前近代」と「近代」のあいだのクレバスははっきりしている。
昭和の聖代にちょんまげをして帯刀している人間はいなかった。
でも、アメリカには明治維新がない。
西部劇の時代はずるずる地続きで20世紀なのだ。
だから「ちょんまげに帯刀」のアメリカ人と「ハイパーモダン」なアメリカ人が、同時代人として平気で併存するということが起こりうる。
なにしろ、あの国には同性間の結婚を認める州と、進化論を教えてはならない州が併存しているのである。
だからこそ、「同時代を生きている」つもりのアメリカ人の間の歴史感覚の「ずれ」は、時には私たち日本人には想像もできないくらいに致命的に深いのである。
ふたりのライダーを撃ち殺した農夫たちは、1969 年にあってなお、「ロックミュージック」も「フラワームーヴメント」も「ヒッピーコミューン」も知らない。おそらく、そんなものが数千キロ離れた都市では平凡な風俗であるということさえ知らない。
同じアメリカ人でありながら共有されている「ふつうのこと」に致死的な落差が出てきたということ。
社会の価値観が単一化してゆくグローバライゼーションの趨勢は必然的に「他者」に対する暴力を胚胎する。
『イージーライダー』は、アメリカが分裂してゆく過程を描いた映画ではない。
むしろ、アメリカが自分たちは多様な集団を含んだ混質的な社会であるという自己認識を失い、「どこでも、『ここ』と同じだろ」というなめた他者認識を国民全員が(殺されるライダーたちも、殺す農夫たちも)共有してゆく過程を描いている。
私はそれを「モラルが失われてゆくプロセス」と呼んだのである。
だから、「自分の国」のつもりで「異国」に気楽に乗り込んでゆくライダーと、「こんなやつらはアメリカ人じゃねえ」という理由で気楽に二人を撃ち殺す農夫たちは、それぞれに「それから後のアメリカ」の実に適切な予兆だったのである。
矢作俊彦が『ららら科學の子』で三島由紀夫賞を受賞した。
68 年のデビュー以来の「無冠の帝王」の実力をついに文壇も認めざるをえなかったということであろう。
私と同じく、年来の「矢作ファン」である高橋源一郎さんから「ヨロコビのメール」が届いた。
高橋さんは「あの人こそ、ほんとに『無冠の帝王』だったわけで、それだけでも、この国の賞のいい加減さがわかるものですが、ようやく、自らの失態に気づき、矢作さんに謝罪したということでしょうか」と溜飲を下げていた。
高橋さんは先週末に葉山で矢作さんと痛飲し、「最後は男二人で『少年探偵団』(映画版)の主題歌を筆頭に、60 年代のアニメソングを歌い」まくったそうである。
矢作俊彦と高橋源一郎が葉山の海岸で「少年探偵団」を合唱しているところを想像すると、なんだか「矢作俊彦の小説のまんまやん」と思うけれど、まことに涙を誘う佳話である。
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(2004-05-19 10:51)