いろいろコメントをありがとうございました。
こういうものは「ご縁」のものですから、「ご縁がなかった」という場合には、さわやかに笑って「はは、ご縁がなかったんだ」と放念するのが精神衛生上も社会関係上もよろしいのではないかと思います。
そのご不満は秋に出る『他者と死者-ラカンによるレヴィナス』をばりばり読み込んで解消してください。
『困難な自由』はとてもいい本ですから、どの訳者の方のものでも出たら買ってくださいね。草葉の陰の老師のためにも、まずは読むのが供養です。
以上、この件についてはおしまい。
三年生のゼミのテーマは「無印良品」。
ゼミでの発言を徴するかぎり、無印ブランド(って形容矛盾だな)に対する学生諸君の信頼はずいぶん高い。
どうして、これほど好かれるのか、根がビジネスマインデッドなウチダとしては、こういう話題には興味がある。
学生諸君から出たコメントの中で、私が「ほほう」と感心したのは、無印良品が「嗜好を強制しない」という点に高い評価が与えられていたことである。
なるほど。
ブランドイメージというのは、「この品物でなければならない」というしかたで消費者の嗜好を誘導することによって成立している。
その種の「・・・なら・・・でなければならない」的、80年代にマガジンハウスやセゾングループが先陣を切って構築した商品提示の文型は、21世紀に入って、かつてのようなつよい購買誘導力を失ってしまった。
それに対抗して登場したのが、「こちらは、何もオススメしません。どうぞ、消費者のみなさんがそのオリジナルな商品選択眼をもって、選んでください」というコンシューマー・フレンドリーで控えめなセールス話型である。
その代表が「コンビニ商法」である。
コンビニの店員は商品知識を持たない。必要でないというより、持ってはならないのである。だから、「お客さん、そっちのコシアンよりこっちのツブアンのほうが、ぜったいオススメすよ」というような購買誘導はなされない。
その「被放置感」がおそらく当今の消費者には快適なのである。
それは『通販生活』に代表される「お買いあげ後2週間までは、返品オッケー。気に入らなかったら、返してくださってけっこうです」という「リセット織り込み済み」のセールスにも通じている。
消費者は「購入にさいしてフリーハンドであること」を、「よりよい商品を専門的知見に裏づけられたセールストークに従ってゲットすること」よりも優先するようになったのである。
経済活動において「フリーハンドであること」が「ベネフィットを得ること」より優先するというのは、考えてみると、かなり徴候的なことである。
本学の総合文化学科はなかなか志願者が多い人気学科なのであるが、その入学の理由をお訊ねすると、「入学時に専門を決めなくてもいいから」という声が圧倒的に多い。
なるほど。
ほんとうにやりたいことがみつかるまで、決断をペンディングしておける、という条件そのものが本学科の「市場価値」の形成に与っていたのである。
「決めることを、急かされない」ということに若い人がこれほどこだわりをもつようになるとはまことに想像外のことである。
考えてみると、私が学生だったころは、「即断即決」ということが、そのふるまい自体審美的に価値とされていた。
「・・・しかねーよ」というような決めつけを、ろくな論拠もないままに行っていた。
どうしてあれほど気楽に決断しまくっていたのか、その理由は今となると、よくわからない。
そういうマナーについてはおそらく「時代の風儀」のようなものがあるのであろう。
そういうえば、私の若い頃のキーワードは「アンガジュマン」であった。
「アンガジュマン」というのは、今はもうほとんど死語であるが、要するに「とりあえず決断する。というのは、決断したあとに『決断しえたもの』というかたちでのみ主体性は立ち上がるからである」という考え方である。
決断できない人間は主体性をもてない。つまり事物の境位にある。
だから「決断できない私」という表現はすでにして背理なのである(「決断できない人間」には「私」という一人称で語る権限自体が認められないんだから)。
ずいぶんと乱暴なロジックだけれど、とにかく、そのころはそういうふうだった。
だから、私も「展開してみろよ。言ってみろよ。いえねーだろ。破産してんだよ、てめーは。黙ってろい」というようなたいへんぶしつけな放言を学内のあちこちで行って、多くの同窓生のみなさんの「トラウマタイザー」となったのであった(ごめんね、いまごろ謝っても、だめかしら)。
で、時代は変わって、いまは「とりあえずペンディング」で、「いつもフリーハンド」で、「一度決めても、リセット権は手堅くキープ」であることが、人々にとってはたいへんカンファタブルな立ち位置らしい。
「デガジュマン」あるいは「デタッチメント」の思想である。
あちらがよくて、こちらが悪いというようなことはもちろん私は申し上げない。
いずれも「時代の風儀」であることに変わりはない。
ただ、アンガジュマンの思想を支えていたのが「歴史を貫く鉄の法則性」への信頼であった以上、デガジュマンの思想を支えているのが「歴史の迷走性」への見通しであるという歴史的文脈の違いはたしかにあるだろう。
世の中この先どうなるかわからない。わからない以上は、「決め打ち」はしたくないというのは健全な生存戦略である。
なるほど。
そのような趨向性のうちに、無印良品や『通販生活』や総合文化学科のポピュラリティを位置づけてみるのは、あながち徒事ではないであろう。
そういえば、私自身もだんだんと「不決断」な人間になっている。
ためらったり、口ごもったり、前言撤回したり、両論併記したり、なんだかんだと言いながら、結論を先送りにして、うじゃうじゃにしてしまうという傾向がこのところさらにつよまっているようである。
だからどうなんだ、と言われても、それに簡単にお答えできるようならこちらも苦労はないわけで。とはいえ、あなたさまにも、それなりのご事情というものがおありだろうし、ま、縁側に座って、お茶でも・・・的なリアクションですぐにぐちゃぐちゃにしてしまうのである。
それでも「決然と不決断の王道を邁進」というあたりに「三つ子の魂」は骨がらみなのである。
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(2004-05-14 21:14)