たべもののうらみはこわい

2004-05-12 mercredi

NTT出版のM島くんがやってくる。
『街場の現代思想』の校正と、次の『アメリカ本』の打ち合わせである。
アメリカ本は先般ご案内のように、大学院の演習でのアメリカ研究でのやりとりをそのままICレコーダーに録音して、それを本にしようという恐怖の「一粒で二度美味しい企画」である。
今回は、ゼミにM島くんご自身が参加して、その様子を検分されたのである。
本日のテーマは小野さんの発表の「ファーストフードvsスローフード」。
食の「マクドナルド化」現象と、それに対してヨーロッパで起きた「スローフード」運動の対立構造を、グローバリゼーションとそれへの反動という図式でとらえようという、わりとわかりやすいお話である。
とはいいながら、さっぱり話がわかりやすくならないのは、ひとつにはウチダが「ジャンクフード大好き」人間であり、マクドナルドのハンバーガーを1971年の日本出店第一号からぱくぱく食べ続け、以後30数年、律儀なマクド・ファンであるという、知識人にあるまじき食文化意識の低い人間であるという動かしがたい事実があるからである。
いまひとつは、スローフードという運動がイタリアのピエモンテに発祥したということを聞いた瞬間に、「ピエモンテ? うーむ、それはちょっとやばいかも」という反応をしたせいである。
ご存じの通り、イタリアのスローフード運動は、マクドナルドのローマ出店に対する批判の運動として、イタリアの伝統的食文化を守れ、というスローガンのもとに始まった。
伝統的な食材を用い、伝統的なレシピで、伝統的な食習慣に則って飯を食うのがポリティカリーにコレクトなイタリア人であるという話をきいて、文句を言う人はいないだろうが、私は「ちょっと待ってね」と言いたくなる。
ちょっと待ってね、とタイムが入るのは、このスローフード運動の発祥と同じ頃に同じピエモンテでどういう政治運動が起っていたのかを連想してしまうからだ。
それは北部同盟の「北イタリア独立運動」である。
ご存じの通り、南北イタリアでは経済格差が大きい。北はリッチで、南はビンボーである。
北の諸州は、自分たちの納めた税金が南の「のらくらもの」たちの生活保護や年金に費消されるのはがまんができないと言い出して、リッチな北イタリアだけの独立を主張した。
これが一大政治運動となり、現在ではベルルスコーニ政権の与党として、与党第三党の議席数を持つまでに至っている。
北部同盟の基本的な思想はひとことでいえば「地域主義」である。
閉じられたあるエリアにおける均質的な地縁血縁的結合を優先し、「コモンウェルス」の中に、自分たちとは異質の文化や地域性をふくむ「弱い敵」たちを抱え込むことに「ノー」を告げる運動である。
その北部同盟運動の拠点のひとつがピエモンテ。
そこで同時期に「マクドナルドのハンバーガーのような汚れたアメリカ物質主義をイタリアの地に入れるな」という運動が起きたことは、政治史的には平仄があっている。
この運動の拠点が1920年代のムッソリーニのファシズム運動のそれと重なっていることもいささか気になる。
思い起こせば、「伝統的食文化の護持」というスローガンは、1920年代にヨーロッパのもうひとつ別の場所でも声高に称えられた。
精白しない「玄麦パン」を食べ、都市的・近代的な加工食品を拒否し、自然のうちで大地と共感しようという運動が、イタリアよりもうすこし北の国で一世を風靡した。
この「ドイツの伝統的食文化を守ろう」運動がその十数年後に「ユダヤ的都市文化からゲルマン的自然へ」を呼号するヒットラー・ユーゲントの自然回帰運動に流れ込んでしまったことは、あまり語られない。
伝統的な食文化はたいせつにしたい。
私だって、そう思う。
でもそれが別の食文化を排斥するところまで過激化すると、「ちょっと待ってね」と言わざるを得ない。
「おまえが食っているものはジャンクだ」という言明は危険な言明だ。
私たちの身体は私たちが食べているもので構築されている。
だから、「おまえが食べているものはゴミだ」という言明は、そのまま「おまえはゴミだ」
という言明を帰結する。
だから私たちは自分が食べているものについて「げ、よくそんなものが食えるな」というようなクリティックを頂くと、けっこう傷つくのである。
これは別に思弁的な話ではない。
私は20代の一時期、けっこうストリクトな「玄米正食」をしていた。
玄米を食べ、有機野菜を食べ、肉を食べず、あらゆる添加物を忌避した食生活を半年ほど送っていたことがある。
おかげでたいへん身体はクリーンになった。
ついでに精神もクリーンになった。
そうすると、まわりで肉を食べている人間や、砂糖入りの食物を食べている人間や、添加物が入っているものを食べている人間を見ると「ゴミを食べている」ように見えてきた。
「ゴミ食うのやめろよ」と私は善意から忠告する人間となった。
言われた人々は一様に不快な顔をした。
まあ、当然ですね。
でも、そうこうするうちに、友人たちとでかけても、私は彼らが食べるものを口にできず、彼らが飲むものを見ると反吐が出そうになった。
その結果、友人たちの誰ともいっしょに会食できない人間となった。居酒屋に行っても食べるものがなく、レストランに行っても何も美味しくない。
そこで私はやや反省した。
わが身ひとりがクリーンになる代償に友人たちを失ってよいものであろうか。
かなり真剣に考えた。
そして一大勇猛心を発揮して、わが身の健康を棄てて、ジャンクな連中との友情を選ぶことにしたのである。
以後私は誰がどんな危険な食物を食べていようと、にこにこ笑って「あ、そういうのが好きなんだ、ふーん。おいしい?」と言えるアバウトな人間になった。
この選択が正しかったかどうかは分らない(なんだか間違っているような気もする)。
でも、他人の食生活に対する批判が、ときに致命的な人間関係の破綻を招来することだけは分った。
それは他人の性生活に対する批判が、しばしば致命的な人間関係の破綻を招来することに似ている。
何を食おうと、君の好きにしなさい。蓼喰う虫も好きずきっていうし。
それ以後、私は他者の食習慣を批判し、「これが正しい食事だ」と主張するすべての人々に対してはわりと懐疑的である。
スローフードを好まれる方々はそうされればよろしい。マクドやケンタが好きな方々はばりばり食されるがよろしい。
美味しいと本人が思うものを食べていれば、いいんじゃない。
それがいちばん身体にいいよ、きっと・・・と私は思う。
マクドナルドのハンバーガーは間違いなくアメリカン・グローバリズムの食文化的な戦略にコミットしている(だから、アラブ・イスラム世界ではマクドナルドがテロの対象になったりする)、一方、マクドナルド化を批判する伝統的食文化愛好は地域主義、排外主義の戦略にそれと知らぬうちにコミットしている。
別にどちらがいいとか悪いとかいうことを申し上げているのではない。
ただ、自分が何かを「美味しい」と感じることにとどまらず、「美味しくないもの」とみなされるものについて「それを喰うな」と要求することは、すでにしてある種の政治的な態度表明になるということに「気づかない」ということは、ちょっと危険だよね、と申し上げているだけである。
というわけで、本日のウチダはマクドナルド文化をどちらかというと擁護する側に立って発言させていただいたのである。
話しているうちに、ほんとにビッグマックとてりやきバーガーが食べたくなってしまった。
もちろん、夜はNTT出版のご接待であるから、そのようなせこいものは食べず、並木屋のお寿司をたらふく頂いたのである。
ああ、日本の伝統的食材を伝統的に調理した食物って、最高(と言いながら、今日のお昼ご飯はモスバの「カツバーガー」でした)。
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