宗傳寺 revisited

2004-05-09 dimanche

父の三回忌で、山形県鶴岡市の宗傳寺に行く。
2001 年の 5 月12日に父、母、兄と四人で訪れたのが、兄と私ははじめての菩提寺詣でであった。
翌年の同じ日に父が亡くなった。
一周忌を去年の5月12日に宗傳寺で営み、今年が三回忌である。
今年は兄の家族たちも参加してにぎやかな旅行となる。
伊丹から山形空港まで行って、レンタカーを借りて、庄内空港までみなさんをお迎えに行く。
私も伊丹から庄内空港に行けばよいのだが、伊丹-庄内だと到着が早朝で、おまけに法事の終わったあとにはもう関西へ帰る便がない。だから、私だけみなさんを見送ったあと、ひとりで鶴岡に泊まって、翌早朝伊丹へ帰るという変則スケジュールになる。
せっかくの家族旅行なのに、それも切ない。
というので、時間を合わせるために、わざわざ鶴岡から遠く離れた山形空港に降り立つことになった。
月山を仰ぎ見ながら1時間半、新緑のなかをクルージングして庄内につく。
でも、どうして車で1時間半のところに二つ飛行場を作ったのか、よく意味が分からない。
山形市と鶴岡市はもとが別の藩の城下町である。
最上藩は外様で、庄内藩は親藩であるから、きっと「おらが国にも飛行場」ということでわずかな距離に、ほとんど飛行機が飛来しない二つの飛行場を作るという愚かなことをしたのではないかと推察される。
困ったものである。
初日は兄とふたりで宗傳寺に打ち合わせにゆき、ついでにお墓を掃除する。
泊まりはいつもの湯野浜温泉の亀や旅館。
温泉に浸かり、歓談、飽食、爆睡。
法事の前に甥たちをむかしの内田家のあったところに案内する。
前にも書いたけれど、私たちの四代前の先祖の内田柳松さんという方は武蔵嵐山の郷士の出で、幕末に江戸に上って千葉周作の玄武館で北辰一刀流を修め、清河八郎と山岡鉄舟の徴募した浪士隊に加わった。
ご存じのとおり、浪士隊は京都に上ったあと、現地で仲間割れして、近藤勇、土方歳三たち、のちの新撰組隊士を残して、大半は江戸に戻り、新徴隊と名乗って、庄内藩お預かりとなる。
柳松さんは上洛のときのオリジナルメンバーの一人で、「尽忠報国勇士姓名録」に一番隊隊士として名前が残っている(近藤勇たち試衛館の諸君は六番隊)。
彰義隊の上野の戦いに破れたあと、藩主酒井忠篤に従って庄内に下り、そこで新徴組屋敷を下賜されて、鶴岡の人となり、その地で戊辰戦争の悲惨な後退戦を戦った。
維新のあと、鶴岡に祖父まで三代が住み、教師だった祖父は県内を転勤としたあと北海道に渡った。
北海道に発つ前の大正八年に祖父の重松さんが建てたのが宗傳寺の内田家累代之墓である。
だからこの墓には四代前からの祖先が眠っている。
もう鶴岡には内田の親族は誰もいない。先年、従兄たちから回り回って兄と私がこのお墓のキーパー役をおおせつかった。
「故郷」と呼ぶようなリアルな記憶はないにもかかわらず、そこが母や兄や私の墓所となることだけは決まっている。
あと何十年かしたあとに、私がその顔も知らない内田家の子孫がこのお墓を掃除しに来たりするのであろう。
だから、鶴岡は未来完了的なかたちで「懐かしい」という不思議な土地なのである。
法事を終えて、伯父がその昔手回しよくゲットしていた「お位牌アパートメント」のようなところに伯父たちの位牌と並べて、父の位牌も納める。
坊主を呼ぶな、お経を唱えるな、戒名をつけるな、仏壇を置くな、とあれこれうるさく指図して死んだ父親であるが、遺族は遺言を無視して、定型的法事を執り行う。
まことに親不孝なことではあるが、孝養というのは親御さまの事情はとりあえずさておき、こちらの都合ですることであるからして、ご勘弁を願う。
法事の帰途、名物の「麦切り」なるものを食して、庄内空港でお別れする。
ひとり雨の中を山形まで戻り、伊丹行きに乗る。
また来年も鶴岡に行く。
そういえば、先日鎌倉で汲みかわした高橋源一郎さんも加藤典洋さんも、父祖が山形の出だった。
何代か前には、高橋家の祖先と加藤家の祖先と内田家の祖先が山形のどこかですれ違っていたかもしれない。その子孫たちが鎌倉でシャンペンを飲んでいるというのも、何かの因縁なのかも。
不思議にそんな気がしてきたりするから、法事って愉しい。
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