『他者と死者』

2004-05-04 mardi

連休二日目。
当然、朝から晩まで仕事。
ポーラ文化研究所の原稿15枚を仕上げて、メールで送稿。
ただちに海鳥社の『他者と死者』の改稿にとりかかる。
もう3年越しで書いているのだが、そろそろ仕上げないといけない。
まだまだ調べなければならないことや書き足したいこともたくさんあるのだけれど、そんなふうに無限に加筆訂正をしていると、初稿が持っていた「一気書きの勢いい」のようなものがなくなってしまって、話のつじつまはあっているけれど、妙にのっぺりして、かえって読みにくくなるということもある。
できが悪くても、「勢いのある」うちに本にしてしまった方が、あちこちに「バリ」が残っていて、案外そのような不整合箇所が次の研究のとっかかりになったりするのである。
はじめて通しで草稿全編を読んでみた。
テンションがあがっている(というか「何かに取り憑かれて書いている」)ところと、そうでないところの潮目がくっきり分かれている。
不思議なものである。
取り憑かれて書いていることは今読んでも「へえ・・・そうなんだ」と他人の書いたものを読んでいるように新鮮である。
たぶん、そういうところは私が書いているのではない(ほんとに「考えてもいないこと」が書いてあるんだから)。
ただ、全編「お筆先」というわけにはまいらない。
やはりある程度「助走」というか「仕込み」というか、散文的「儀式」が必要である。
それをこりこりとやっているうちに、「やあ」という感じで「うなぎくん」が到来してくるのである。
「うなぎくん」の登場は「忘れていた人の名前をふと思い出す」感じに近い。
数えてみたらざっと400枚。だいぶ厚い本になってしまいそうである。
でも、3時間ほどで一気に読めた。
論考としての出来不出来の評価はさておき、「こういうふうに書かれたレヴィナス論」はこれまでになくオリジナルなものであることはたしかである。
どんなふうに「オリジナル」であるかというと。
ちょっと「まえがき」の一部に代わって語ってもらおう。

(前略)私はレヴィナスについてはかなり長期にわたって集中的な読書をしてきたが、いまだにレヴィナスが「ほんとうは何を言いたいのか」よく分からない。
ラカンについては、レヴィナスよりさらに何が言いたいのか分からない。
にもかかわらず、「分からない二人」の著書を交互に読んでいるうちに、私はどうやら自分が「同じ種類の難解さ」を相手にしていることに気づいたのである。
「私には理解できないこと」がある。それが一つだけなら手の施しようがない。しかし、「同じ種類の理解できないこと」が二つあると話は違ってくる。そこに「共通する分からなさ」が読解の手がかりを提供してくれるからである。
絡まった結び目を解く場合と同じように、難解な思想に取り組むときは、どこか一箇所でも解けるところを見つけて、そこからほぐしてゆく。
「あ、ここからならほどけそうだ」という感じを私はさきほど「腑に落ちる」という表現に託したのである。その先がどうなるか、それはまだ分からない。次の結び目でまた立ち往生するかも知れないし、もう少しほぐれ続けてゆくかも知れない。
私の読みは「ゴルディオスの結び目」を一刀両断にするような読み方とはずいぶん違う。
「ゴルディオスの結び目」というのは古代フリギア王ゴルディオスが作った複雑怪異な結び目で、それを解いたものはアジアの覇者になるだろうという予言と共に遺された。誰も解けなかったその結び目をアレキサンダー大王はばっさりとその剣で切り離し、予言通りアジアの覇者となった。
難解なる思想を解説するときに、多くの人は「アレキサンダー大王の剣」を持ち出そうとする。
例えば、レヴィナスを読むときにマルクス主義理論やフェミニズムのテクスト論を適用してみるのは、「アレキサンダーの剣」による解決に類するものであると私は思う。
たしかに、それによって結び目はみごとに切り落とされるだろう。
マルクス主義的な読みによれば、レヴィナスは「ブルジョワのシオニスト」にすぎないし、フェミニズム的な読みによれば、「父権主義的セクシスト」にすぎない。こういう分類を信じるなら、レヴィナスの「よく分からない思考」はすべて「妄言」として退けることができる。
たしかに、そのような「アレキサンダーの剣」的な理路は単純にして明快だ。しかし、そのような「理解」から私たちが得るものと失うもののどちらが多いか、これは吟味してみる必要があると私は思う。
「話を簡単にする」読みはしばしば「縮減する読み」たらざるを得ない。一人の知的巨人のスケールをできるだけ矮小化し、そこから汲み出しうる知的資源を最小化するような読みを採用することによって私たちの世界がどれだけ豊かになるのか、私にはよく分からない。
たしかに、「快刀乱麻を断つ」読みのもたらす爽快感や全能感が私たちにはときには必要だ。でも、爽快感や全能感を欲するのは、私たちが賢明で強い人間だからではなく、あまり賢明でなく、それほど強くない人間だからである。その原因結果の関係だけは覚えておこう。
もし、私たちにいくらかでも人間的向上心があるなら、「話を簡単にすること」を自制するということも、たまには必要だろうと私は思う。
それに、話を簡単にすることを私が自制しても、それで困る人は(こうやってややこしい話に付き合わされている「あなた」を除けば)どこにもいないし。(後略)

どんなふうに複雑怪奇であるかということは、本を手にとっていただいてみなさんご自身で吟味していただきたいと思う。
これは『レヴィナスと愛の現象学』につづくレヴィナス三部作(というものを発作的に計画)の第二部に当たる。
第三部はレヴィナスの時間論を取り上げる予定。
レヴィナスの時間論をハイデガーやベルクソンの時間論と比較考量するのではあまり曲がない。だから、次作では武道的な身体運用の時間意識との関連によるレヴィナス読解を試みてみようと思っている(「合気道とレヴィナス哲学は同じ人間観に基づいている」という30年来の「直感」を言語化するという、「これぞライフワーク」なのである)。
というわけで『他者と死者:ラカンによるレヴィナス』はこの秋、海鳥社より刊行予定。
刮目して待て、諸君。
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