コンピュータ・デバイドとネット・コミュニケーション

2004-05-02 dimanche

私にとっての連休初日である。
とりあえず合気道のお稽古。
べつにやることは普段とかわらないのであるが、なんとなくみんなうきうきしている。
天気もよいしね。
基本的なことをおさらいしながら、いろいろと時間の問題について考える。
時間というのは物理的に実体としてあるものではなく、あくまで「計測する主体」が関与することによって分節されるものである。
ということは、計測する主体の用いる度量衡の目盛りが違えば、当然、こちらとあちらでは流れる時間が定量的に違ってくる。
そうですよね。
私が1秒を10に分割して、あちらが1秒を5に分割していれば、私の方の「2目盛り」動くあいだに、あちらは「1目盛り分」しか動かないわけだから、ずいぶんと動作が緩慢に「見える」はずである。
ということは、「速く動く」ということは、空間座標上のA地点からB地点に短時間に移動するということではなく、A地点からB地点までのあいだの移動時間をより細かく分割するということに帰着する。
では時間をどうやって分割するかというと、これは身体の部位の分割と相関する。
たとえば、正面打一教で相手の肘を抑えるときに、自分の手が相手の腕を「つかむ」動作をしていると考えて動いているひとにとって、動作単位は1となる。
しかし、このとき、自分の手は相手の腕を「つかむ」のではなく、「斬る」動作であると考えているひとにとって、動作単位は2となる。
というのは、この場合、相手の手首にふれている手は「押し斬り」、相手の肘に触れている手は「引き斬り」をしているからである。
これは剣の操作の基本である。
剣を振るときは、右手は「押し斬り」(刀を前方へ押し出す動き)、左手は「引き斬り」(刀を正中線上に引き戻す動き)をしている。
「第一教」というくらいであるから、むかしの侍にとっては「いちばん基本的な身体操作」であったにちがいない。そして、むかしの侍にとって誰が考えても「いちばん基本的な身体操作」とは抜刀して正眼に構える動作なのである。
抜刀の理合だと考えてこの動作を行うと、むしろ重要なのは左半身の開きであることに気づく(斬りのエネルギーの過半は左半身の「鞘引き」動作から備給される)。これをカウントにいれると、動作単位は3となる(もちろん、操剣のためのチェックポイントは実は無数にあるのだけれど、ここは話をすごく簡略にしておく)。
だから、「相手の肘をつかむ」という動作単位1の運動をする人と、「抜刀して正眼に構える」という動作単位3の運動をする人とでは、時間の流れる速さが違ってくる。
同一時間のあいだに「3つの動作単位をすませないといけない」人から見ると、「1つだけでおしまい」の人の動作は3倍緩慢に見えるはずである。
そういうことである。

お稽古が終わってから、IT秘書のイワモトくんがパソコンの修理に来る。
どういうわけかウィンドウズマシンからホームページの更新をしようとすると、うまくゆかないのである。
20分ほどあれこれいじったあと、セキュリティの壁が高すぎて、こちらから送るものまで自分ちの壁ではねかえされていたことが判明する。
「送信のときだけ、一時的にセキュリティを無効にしてください」という指導を受ける。
私がひとりでマニュアルをめくって原因を考えていたら、100年を要してもこの結論に到達することはできなかったであろう。
コンピュータテクノロジーはすさまじい速度で進化を続けており、これに私のようなアマチュアがキャッチアップすることはもはや不可能である。
したがって、こういう場合は「専門家に丸投げする」というのが、ただしい作法であると私は思う。
「餅は餅屋」。
しかるに、「丸投げ」をいさぎよしとせず、あくまで自分のコンピュータ環境を自分ひとりでコントロールしようとする方々がいる。
だが、そのスタイルに固執すると、テクノロジーの進化にキャッチアップするだけで、ほとんどの時間とエネルギーを投入しなくてはならないのではないかと思う。
そもそもコンピュータというのは「何か」をするためのツールなのであって、ユーザーが機器のヴァージョンアップにエネルギーを使い果たして、ツールを使う時間をツールの整備のために食われてしまった、というのでは本末転倒である。
ひとびとが「丸投げ」をためらう理由の一つに、個人情報の保全がある。
コンピュータのデータの中にはかなりコンフィデンシャルな個人情報が含まれているが、ネット環境の整備のためには、当然それを整備する専門家には、個人情報へのアクセスフリーを確保しておかなければならない。
ということは、あちらが見る気になれば、なんでも見られちゃうということである。
それでも「平気」というためには、ただの「ITの専門家」ではなく、同時に信頼できる「セクレタリー」でもなければならない。
だが、優秀にして誠実な「セクレタリー」は求めて得られるものではない。
たまたま私が二名の卓越した「セクレタリー」を確保しえているのは、私が別の目的のために投じてきた文化資本投下の思いがけない副産物であって、別に自分のコンピュータ環境を整備したいからという功利的な動機で人脈形成を行ってきたわけではない。
イワモト秘書の話によると、コンピュータ・デバイドではなく、ネット・デバイドがいまものすごい勢いで社会全体広がっているそうである。
彼がおもしろがっていたのはGreeというプロジェクト。
これは少し前にアメリカではやった「自分の友人のつながりをたどって、何人目でケヴィン・ベーコンに達するか」というゲームのネット版である。
理論的には「6人目」で誰でもケヴィン・ベーコンとリンクされるという話を聞いたことがある。
別にケヴィン・ベーコンである必要はまったくなくて、要するに世界中のすべての人は「なか6人の知り合い」でつながっているのである。
このGreeプロジェクトの会員が昨日の段階で18000人くらい。
秘書によると、この「遊び」に参加した最初の数千人が「今日本でいちばん先端的なネット・ピープル」だそうであり、このプロジェクトをすでに知っているかどうかだけで、そのひとの情報感度がかなりの信頼性で判定できるのだそうである。
会員を大学別で見ると慶應が圧倒的にトップ。続いて東大。わが神戸女学院は会員2名で、情報感度的にはかなり低レベルみたいだが、なんとその一人はコノハちゃんだったりする。
この大学ランキングは入学者の偏差値とは関係なく、その大学の情報感度の指数として見ることができると秘書は力説していた。
面白かったのは都道府県別会員分布で、東京が1万人でもちろんダントツ。島根県が7人で最低。
ネットというのは、そういう地理的な懸隔とかかわりなしに、全国津々浦々の人々に同じアクセシビリティを確保するという建前であるが、実際には「情報後進地域」というものが不回避的に発生するのである。
結局私たちはネット上でも「毎日顔をつきあわせている人間」とほとんど排他的にコミュニケーションしているということが分かるのである。
マスメディアではこのような事実はまず報道されない。
でも、それはマスメディアがネットワーク・コミュニケーションに後れを取っているからだ、というふうには私は考えない。
「こういうの」は昔からあった。
私が中学生のころには無線ファンたちが「つながること」だけを目的とした全国ネットをつくっていたし、SFファンの子どもたちも全国ネットを形成して、ひたすらネットワーク・コミュニケーションに興じていた。
マスメディアはもちろんそのようなネットワークが存在していることを報じなかった。
でも、それも当然である。
「アンダーグラウンドであること」がネットワーク・コミュニケーションでは、その愉悦の半分を提供していたからである。
それが無視されたことは、必ずしもマスメディアの情報感度の低さの指標ではなく、そういうふうにいくつかの種類のコミュニケーション形態の「棲み分け」があるほうがいいよね、ということについて社会的な暗黙の合意があったからではないかと思う。
これから先、ネットでつながる共同体がどういうふうに社会的に機能することになるのか、私には予測がつかないけれど、まあ、それほどカタストロフィックなことにはならないような気がする。
私が中学生のときに参加していたSFFCも、排他的である点については、いまのネットワーク共同体と変わらなかったが、山本浩二も松下正己もそのあと「ちゃんとした大人」になったからね。
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