大学教員研修会。
連休の谷間であるが、この日は大学の授業は休講で、終日教職員の研修会が行われる。
教員研修会のテーマは「『特色ある大学教育支援プログラム』と本学の教育活動評価」。
私は自己評価委員長として、このイベントの現場監督役をおおせつかっている。
「特色ある大学教育支援プログラム」は当初「教育トップ100校」と呼ばれ、ついで「COL」(Center of Learning)と呼称され、最近では「GP」(Good Practice)と改称を求められている。
呼び名が二転三転したのは、その性格づけについて、実施主体のがわに十分な合意形成がなされておらず、文部科学省と実施委員会の先生たちのあいだに微妙な温度差があったことに起因していると私は見ている。
おそらく文部科学省は当初このプログラムを「大学の序列化と市場原理の導入による、『負け組』大学の淘汰」を加速する方向で構想していた。それに対し、実施にあたった絹川ICU学長以下の実施委員会メンバーは「大学の教育力の構造的な強化による、できるだけ多くの大学の生き残り」という反グローバリズム的な構えで応じた。私はそう見ている(違うかもしれないけど)。
一大学人としてもちろん私は「市場原理の導入による弱者淘汰」という単純な政治よりも、「できるだけ多くの大学のそれなりの生き残り」という複雑にして困難な課題に親近感をもつ。
どうせ骨を折るなら、「まだ誰も試みたことのない困難な課題」に取り組んで、前のめりに倒れる方が骨の折り甲斐がある。
しかし、この高等教育の明日を決定づけかねない重要性をもった教育戦略の歴史的意義について、まだ本学教員の間に十分な共通認識が形成されてはいない。
もちろん不肖ウチダも機会あるごとにその点についてはアナウンスはさせていただいているのであるが、なにせ不徳の致すところで、「ウチダが力説することなら、ろくなことではあるまい・・・」という「それはあんまり」なリアクションが散見(どころじゃないな)されるのである。
なべて私のこれまでの没義道な言動に対する教職員のみなさまの健全なるリアクションであり、私の側にはいささかも恨む筋はないのだが、狼少年だってたまにはほんとうのことを言う。
というわけで、「今起こりつつある高等教育のあり方の歴史的シフト」の方向と意義を本学のみなさまに正確にアナウンスしていただくべく、COLのレフェリーであり、1月のフォーラムで、その歯に衣着せぬご発言で私とナバちゃんの度肝をぬいた冨浦梓先生(東工大監事)に講師としてご足労願うことを原田学長に懇望したのである(思いがけなく、原田学長が冨浦先生と大学設置審議会でご昵懇だったので、話はとんとんとまとまった)。
冨浦先生はいわば「産業界を代表する大学ご意見番」という立場にあり、新日鐵の役員をされながら日本学術会議や学術振興会の委員を歴任された方である。
その風貌に小津安二郎の昭和30年代の映画に出てくる中村伸郎や北竜二の役どころを思わせる旧制高校的な「古き良き時代のエグゼクティヴ」の面影をとどめた方である。
冨浦先生は何度か自称して「技術屋」という言い方をされたが、これはある時代まで日本のサラリーマンが好んでもちいた区分である(明治生まれの私の父もまた「古き良き時代のサラリーマン」であったが、父は「事務屋」という自称を好んでいた)。
そういう「正統的な勤め人」と、当今「リーマン」と自嘲する方々のあいだには明らかにある種の「エートスの段差」がある。
前夜、宝塚ホテルでの学長と東松さんとごいっしょした接待のときのお話も、講演もシンポジウムのときのお話もたいへんに面白かったのであるが、私はむしろその「語り口」にすっかり聞き惚れてしまった。
こういう比喩は不適切かも知れないけれど、大学の教師というのは、どこか「一本どっこ」の侠客みたいなところがある。「てやんでえ、おいらはおいらでえ」というこの潔さが風通しがよくて私は好きなのだけれど、冨浦先生のような「大看板を背負って語る」という感じは大学の教師からはしない(「権威をかさに語る」学者はいるけれど、それはぜんぜん意味がちがう)。
「大看板を背負う」というのがどういうことなのか、私にはうまく言えないけれど、「とりあえず、いまの日本社会がこうあることについては、『私たち』がその責を負う」というスタンスの揺るぎなさが私には「なつかしい」感じがしたのである。
そういうふうな立ち位置から発言する「大人」の人がだんだん日本からいなくなったからかもしれない。
研修会は盛会であったし、私は有用な多くの情報を得ることが出来たけれど、冨浦先生のような「正統的な勤め人の(おそらく)最後の世代」の方のたたずまいをまぢかに見ることができたことが私にとってはこのイベントを企画したことの最大の収穫であった。
研修会のあと学長とごいっしょにしばらく歓談したのち、私の車で冨浦先生をJRの駅までお送りした。
「じゃあ、また会いましょう」と笑いながら一揖してすたすた駅の方に歩いてゆく冨浦先生の後ろ姿を見送りながら、私は「なるほど」と妙に気持ちが片づいた。
何が「なるほど」なのか、うまく言えないけれど。
多田先生がサラリーマンになっていたら(多田先生は大先生から「君みたいな人が合気道の専門家になればいいんだけどね」と言われるまで、早稲田を出たあとは先生のお父さんや伯父さんたちのように大企業のサラリーマンになるつもりでいたそうである)どんな感じになられたのかなあ、とふと考えた。
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(2004-04-30 21:46)