砂場の英語と『太陽の涙』

2004-04-27 mardi

爆睡後、がばっとおき上がって、原稿書き。
まず産経新聞から頼まれている書評1000字。取り上げたのは市川力さんの『英語を子どもに教えるな』(中公新書)。
バイリンガルに育てるということのリスクとコストについて論じた本で、共感する点が多かった。
外国で暮らしたり、インターナショナルスクールに入れたりして、英語話者のあいだに置かれると、子どもは仲間や先生とすぐに「ぺらぺら」話すようになる。
それを見て「ネイティヴのような発音だ」と親は喜ぶが、これはしょせん「砂場の英語」に過ぎない。
「砂場の英語」から「教室の英語」のあいだには乗り越えることの困難な段差がある。
それは「自分の経験や状況を共有している親しい特定の人」ではなく、「自分のことを知らない未知の不特定の人たち」にも通じることばの使い方を知るということである。
「あれ」と言えば分かる人に向かって語る「身内のための語法」と、「あれ」を知らない人に「あれ」が何であるかを適切に理解させるために用いる「他者のための語法」は別種のものである。
コミュニケーションとは「他者に届くことば」に至るための長い修業のことである。もちろんネイティヴのような発音ができることは貴重なことだが、その発音をもってしても「あれ」を「あれ」としか言えないのであれば、ことばは身内から先へはとどかない。
「『っていうかー、ぶっちゃけ、チョーむかつくじゃん』という次元の会話しかできない人々や暴言を繰り返す政治家などは、冗談ではなく、すべて『セミリンガル』といってもさしつかえないであろう」(82 頁)と市川さんは書いている。
「中学生みたいにぺらぺらしゃべる」ことは「ネイティヴ中学生」ではない人間にはむずかしい。
けれども、そんな「砂場の日本語」だけでは私たちは「身内」以外の誰ともコミュニケーションすることができない。
そして、外国語を学ぶ意味があるとすれは、それが「身内の壁」を乗り越えるための「梯子」であるということ以外にはない。
しかし、現実には英語に限って言えば、むしろ「身内の壁」を強化するために、つまり、その言葉を使えない人間たちを「排除する」ことをめざして英語を学んでいる人々がずいぶん多いように私には思われるのである。
「英語ができると就職に有利」と言い方そのものが外国語運用能力の「排他的」な機能を表現してはいないのか。
1000字を15分で書いて、「一丁上がり」。
その足で三宅接骨院に行って、背中をほぐしていただき、お土産に10弦ギターの小川和隆さんという方のCDを3枚頂く。
治療に行って、身体を治していただいた上、帰りにお土産を頂いて帰る。
このお礼はやはり「三宅先生のカルマ落とし」に全力を挙げてご協力する以外にあるまいと決意を新たにする。
芦屋駅前のフレッシュバーガーでチーズバーガーを囓ってブランチ。
次はポーラ文化研究所というところから頼まれた身体論の原稿。これは15枚なので、15分というわけにはゆかない。
とりあえず、日曜の多田塾研修会の帰り道に、工藤くんとQ田さんを相手におしゃべりしたことをとっかかりに書き出す。
Qちゃんが日清食品の前の信号のところで、「多重人格とDVは同根の現象では」という卓見を述べられたので、それをそのままパクらせて頂く。
これくらいは「店賃」としてたまに回収させていただいても、いいよねー。
そのままぐいぐいと15枚書いて、おやつの前に書き上がる。これで二丁上がり。
続いて、本日三本目の『ミーツ』の離婚論その2にかかる。
さすがに時間切れ。
四時半になったので大学へ杖のお稽古に行く。
新人が3人(1年生が2人)来ているので、なんだかずいぶんと人数が多いような感じがする。
どうかこのままみなさんお稽古続けてくださいね。
杖と太刀の基本的な使い方を教えたあとに、合気杖、それから全剣連型の四本目をおさらいする。
2時間があっというまに経ってしまう。
雨が降り始めた。
家にもどって蛸ともずくと胡瓜の和え物を作って、ビールを飲みながらずるずると啜る。
夏だね。

お食後にお向かいのビデオ屋に行って、ブルース・ウィリスの『ティアー・オブ・ザ・サン』を借りてくる。
なんだか痛々しいほどアメリカの「被害者意識」が露出した映画だった。
ナイジェリアの内戦のときに、ジャングルの教会に取り残されたアメリカ人の医師を救出にゆく特殊部隊の話。
一昔前なら、悪ものに襲われて困っている良民を救いに騎兵隊が駆けつけると歓呼の声で迎えられるという話になるのだろうが、今はさすがにそんな映画は作れない。
特殊部隊はゲリラと同じように、戦争を飯の種にしている「暴力的なやつら」という冷たい視線で迎えられ、救出されるはずのアメリカ女性も「何しにきやがった」という態度でつんけんしている。
もちろん、最後は「あなたのおかげよ」ということでブルース大尉は女医さんにきっちりハグしてもらえるのだけれど、別に恋に落ちるとか、敬意を抱くとか、そういうことではなく、悪路を操縦してくれたドライバーに「どうも、ね」と握手する程度の愛情表現である。
その「どうもね」を獲得するために、ブルース大尉は部下のほとんどを死なせ、本人も重傷を負うことになる。
どう考えても、損得勘定の合わない戦争だ。
おそらくいまのアメリカの平均的市民の「戦争観」はこれにかなり温度が近いのだろうと思う。
これだけ犠牲を払っても、リターンはわずか。
感謝のことばも外交辞令程度のものにすぎない。
そんな分の悪い取り引きのために、何人ものアメリカの若者が死んでゆく。
もう止めないか?
世界なんかほっとこうよう。
「悪の枢軸」がジェノサイドをやろうと独裁をやろうと政治犯を虐殺しようと、もうほっとこうよ・・・好きにさせてやろうよ。
そんなアメリカ市民の「本音」が漏れ聞こえてくる。
なんとなく「モンロー主義」への後退を予見させる映画だった。
イラクのあと、アメリカは必ずモンロー主義的な孤立政策のうちにふたたび閉じこもるであろう。
ハリウッド映画の「徴候性」を侮ってはいけない(予言がはずれたら、ごめんね)。
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