学校が始まったので、生活が規則的になる。
きちきち。
私は規則的な生活、ルーティンワークが大好きである。
毎日、きちきちと授業をし、さくさくと原稿を書き、いそいそとお稽古に出かけ、決まった時間になると寝ころんで映画を見る・・・という判で押したような生活が、いちばん性に合っている。
ところが世の中には「判で押したような生活はイヤだ。毎日がめまぐるしく変化する冒険的な人生をつうじてこそ真の『自分らしさ』は発見されるのである」というようなことを言われる方がいる。
めくるめくような恋とか、寝食を忘れるような冒険とか、極限的なスリルとか、そういうものが「ない」ために、いまの自分の毎日は味気ないものになっているのだ、というふうに説明する方がいる。
こちらのみなさん(「冒険派」とお呼びすることにする)の方が主流派で、「ルーティン大好き」という私のような人間はむしろ少数派である。
こういうのは好きずきだから、どちらが「よい」とは一概に言えないけれど、「変化好き」という点では私のような「ルーティン派」の方がむしろ「変化好き」なんじゃないかなと思う。
「毎日判で押したように同じことをしている」と、その「同じこと」と「同じこと」のあいだの「違い」がくっきりと際だってくる。
それは天文学者が毎晩同じ時間に同じ天空を観察することで、星の動きを観察するのと似ている。
「同じもの」という「地」の上にはじめて、「違うもの」という「絵」が浮かび上がるのである。
それは、道ばたに咲く花の種類が変わったとか、キャベツが安くなったとか、そろそろスーツの替えどきかな・・・とか、そういう季節の変化の水準から、友人知人の経年変化まで、さまざまな水準にわたっている。
それは「冒険志向」派と発想がちょうど逆になっている。
「めくるめく恋・・」以下のさまざまな冒険を夢見ている人たちは、日々のルーティンの中に「かわりばえのしないもの」を選択的に見ようとする。
窓から見える同じ景色、まわりをとりまく同じ顔ぶれ、机の上の同じ仕事・・・そういうものにうんざりして、「こんなことで人生を無駄に過ごしていいんだろうか・・・」という反省の気持ちが生まれ、それがいつしか冒険へのおさえがたい思いに火をつけるのである。
「日々刻々と変わるもの」に注視するか、「まるで代わり映えのしないもの」にうんざりするか、これは主体の側の決断の問題である。
そして、冒険派の人々は、逆説的なことだが「うんざりすること」をその体質の基本としている。
当然だよね。
冒険というのは「例外的な出来事」なんだから、そうそう毎日起こってはたまらない。というか、毎日起こるようになったら、それこそ戦争にも天変地異にも必ず「退屈」してしまう・・・というのが「冒険派」の基礎的なメンタリティなんだから。
これは「勝負」の世界では「負け慣れた」人の方が有利であるという逆説によく似ている。
トーナメントでは、最後に勝ち残るひとり以外の全員は「負ける」。
ということは、トーナメント参加者は確率的にはほぼ全員「負ける」ために参加しているということである。
であれば、この種の催しに参加するのは、主として「負けても平気」なみなさんであるというのも理の当然である。
こういう試練を生き延びることができるのは、「負けた屈辱感をバネにする」とか「敗因を次に生かす」とか「気分をぱっと切り替える」ことができる諸君である。
彼らがその能力をさらに向上させるためには「勝ちにこだわる」ことより「負けても平気」「負けからプラスを引き出す」能力に富んでいることの方が有利である。
つまり、「勝負の世界」というのは、「負け方が上手であること」の方が「負け慣れていないこと」よりも、トータルでは大きな利益が得られる世界なのである。
それと同じ逆説が冒険派のみなさんについても言えるのではないかと私は思っている。
冒険派の人々こそが、おそらくはこの社会の多数派なのである。
なにしろ、彼らは「うんざりする」ことを日常感覚の基本的情動にしているからである。
よほど「うんざり」していないと、なかなか冒険を求める気持ちはわき上がってこない。
私のように、毎日のルーティンワークが楽しくて仕方がないという人間は決して「冒険の旅」とか「破滅的な恋」とか「おさえがたい欲望」とかに身を任せることはない。何しろ毎日楽しいんだから、他に求めるもののあろうはずがない。
私は実にさまざまな約束を忘れることで知られた人間である。
ふつうの人は「イレギュラーな予定」をはっきり意識しており、「毎日同じ出来事」は意識に前景化しない。
ところが私はその逆で、「毎日同じ」ことばかり考えているせいで、「イレギュラーな予定」をほとんど組織的に忘れてしまう。
「明日の朝ご飯のための納豆と豆腐」を買い忘れるということはまずないが、「明日は東京から来た編集者と仕事の打ち合わせがある」とか「明日はフレッシュマンキャンプで六甲セミナーハウスに泊まる」というようなことはほとんどの場合忘れている(かろうじて思い出したのは、その朝に石川先生から「今日の段取り」についての確認メールを読んだからである。メールを読んでも、何の話なんだかしばらく分からなかった)。
これはボケが入ったとか、そういうことではなく、私にとって「納豆と豆腐の朝ご飯」を食べることの方が、仕事の打ち合わせやお泊まりに行くことよりも主観的には「スリリング」な経験であるということではないかと思われる。
しかるに毎日のルーティンワークが楽しくてしかたがないせいで、生産性が高まりすぎ、その結果、イレギュラーな仕事がじゃんじゃん入ってきて、私の「毎日同じ人生」はさっぱり実現できないのである。
世の中うまくゆかないものである。
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(2004-04-18 12:11)