うなぎくん、小説を救う

2004-04-12 lundi

柴田元幸さんからどかどかと本が送られてきて読むのが追いつかないという話を昨日書いた。
とりあえずいちばん最近届いた『柴田元幸と9人の作家たち』(アルク)から読むことにする。
これは柴田さんが9人の作家に会ってインタビューしたのをそのままCDにして本に付けてしまったという、大胆な本である。
9人目の村上春樹インタビューから読む。
面白い。
私が横からとやかくいうことではないが、思わず「おおお」とうなった箇所をそのまま採録。

村上:僕はいつも、小説というのは三者協議じゃなくちゃいけないと言うんですよ。
柴田:三者協議?
村上:三者協議。僕は「うなぎ説」というのを持っているんです。僕という書き手がいて、読者がいますね。でもその二人だけじゃ、小説というのは成立しないんですよ。そこにうなぎが必要なんですよ。うなぎなるもの。
柴田:はあ。
村上:いや、べつにうなぎじゃなくてもいいんだけどね(笑)。たまたま僕の場合、うなぎなんです。何でもいいんだけど、うなぎが好きだから。だから僕は、自分と読者との関係にうまくうなぎを呼び込んできて、僕とうなぎと読者で、三人で膝をつき合わせて、いろいろと話し合うわけですよ。そうすると、小説というものがうまく立ち上がってくるんです。
柴田:それはあれですか、自分のことを書くのは大変だから、コロッケについて思うことを書きなさいというのと同じですか。
村上:同じです。コロッケでも、うなぎでも、牡蠣フライでも、何でもいいんですけど(笑)。コロッケも牡蠣フライも好きだし。
柴田:三者協議っていうのに意表をつかれました(笑)。
村上:必要なんですよ、そういうのが。でもそういう発想が、これまで既成の小説って、あまりなかったような気がする。みんな作家と読者のあいだだけで、ある場合には批評家も入るかもしれないけど、やりとりがおこなわれていて、それで煮詰まっちゃうんですよね。そうすると「お文学」になっちゃう。
 でも、三人いると、二人でわからなければ、「じゃあ、ちょっとうなぎに訊いてみようか」ということになります。するとうなぎが答えてくれるんだけれど、おかげで謎がよけいに深まったりする。(…)
柴田:で、でもその場合うなぎって何なんですかね(笑)。
村上:わかんないけど、たとえば、第三者として設定するんですよ、適当に。それは共有されたオルターエゴのようなものかもしれない。簡単に言っちゃえば。僕としては、あまり簡単に言っちゃいたくなくて、ほんとうはうなぎのままにしておきたいんだけど。

「うなぎ」には私も意表を衝かれた。
でも、これはモーリス・ブランショが「複数的パロール」という概念で言おうとしていたこととすごく近いような気がする。
ブランショはこう書いていた。

「どうしてただ一人の語り手では、ただ一つの言葉では、決して中間的なものを名指すことができないのだろう? それを名指すには二人が必要なのだろうか?」
「そうだ。私たちは二人いなければならない。」
「なぜ二人なのだろう? どうして同じ一つのことを言うためには二人の人間が必要なのだろう?」
「同じ一つのことを言う人間はつねに他者だからだ。」(『終わりなき対話』)

あるいはレヴィナスが「第三者」(le tiers) という概念で言おうとしていたことにも、かなり近いのでは・・・

〈あなた〉の顔が私をみつめているあいだも、〈無限〉はつねに〈第三者〉すなわち〈彼〉としてとどまっている。〈無限〉は〈私〉に影響を及ぼすけれど、〈私〉は〈無限〉を支配することができないし、〈無限〉の法外さを〈ロゴス〉の起源(arch氏j を通じて《引き受ける》こともできない。〈無限〉はそのようにして〈私〉に無起源的 (anarchiquement) を影響を及ぼし、〈私〉のいかなる自由にも先行する絶対的受動性において、痕跡としてみずからを刻印し、この影響が励起する《他者に対する有責性》として顕現するのである。(『困難な自由』)

うーむ、きっと、そうだ。
同じような生成的な機能を私は高橋源一郎が造形した「タカハシさん」という語り手のうちに見出して、それについてちょっとだけ書いたことがある。
でも「うなぎ」とはまた・・・なんと喚起的なメタファーだろう。
「アルターエゴ」とか「《私》と名乗る他者」とか、そういうややこしいことを言わないでずばり「うなぎ」と言い切るところが村上春樹の作家的天才だと思う。
こういうことばの選び方は、やはり reader friendly という村上春樹のマナーを反映していると思う。
それについてはこういう発言があった。

村上:僕は本当にできるだけ、小説というものの敷居を下げて書きたい。それでいて質は落としたくない。僕が最初からやりたかったことはそれなんですよね。
柴田:うんうん。
村上:とにかく、エスタブリッシュメントみたいな小説は書きたくないし、かといって、アヴァンギャルド的は反小説的な小説というのも書きたくない。そういう形で崩しはやりたくない、と。メインストリームに近いところで、敷居を低くしながら、いろんなものを作り変えていきたい。と。そういうのが僕の最初からのつもりですよね。
 変なたとえだけど、優れた映画というのは、ミニシアターみたいなところで、少人数で知的に見ないといけないと思っている人はけっこういるけど、たとえば『マトリックス』を見て、『マトリックス』のなかの何が面白いのかというのを皆にわかりやすく、すごくラディカルに説明できる人もいるわけですよね。僕はどっちがあってもいいと思うんです。(…)
 そういうものを、非知性的だ、大衆的だとばかにすることは、わりと簡単にできちゃうんです。(…)
 いい小説が売れない、それは読者の質が落ちたからだっていうけれど、人間の知性の質っていうのはそんなに簡単に落ちないですよ。ただ時代時代によって方向が分散するだけなんです。この時代の人はみんなばかだったけれど、この時代の人はみんな賢かったとか、そんなことはあるわけがないんだもん。知性の質の総量というのは同じなんですよ。それがいろんなところに振り分けられるんだけど、今は小説のほうにたまたま来ないというだけの話で、じゃあ水路を造って、来させればいいんだよね。と、僕は思うけれど、こんなこと言うと、また何だかんだ言われるかもしれないなあ(笑)。

私は村上春樹のこの発言に全面的に賛成である。
これはとても「まっとう」な考え方だと思う。
ただ、この村上春樹のリーダーフレンドリーネスが、日本の既成の文学制度に対する激しい攻撃性に裏づけられていることも見落としてはいけない。
このスタンスはデビュー当時からぜんぜん変わってない。

村上:よくね、日本でも「村上が日本文学をだめにした」とか言われるんだけれど。だってね、僕ごときにだめにされるような文学なんて、最初からだめだったんじゃないか、というふうに正直に言って思いますね。開き直って。

いやー。相変わらずムラカミ先生快調ですね。
というわけで、柴田元幸先生になりかわりまして、『柴田元幸と9人の作家たち』をつよくご推奨させていただきます。面白いぞ。
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