君が代再論

2004-04-05 lundi

ノビさんという方からこんなメールがきた。
ご本人から「できればホームページ日記でご回答を」というご依頼であったので、以下にその Q&Aを掲載することにする。
まずはご質問。

2004年03月31日の日記についての質問です
君が代の歌詞自体について内田先生はどう思われているのか、教えていただけたらと思いました。
歌詞について考えるのは、言葉狩りの一端のような気もして「そこまでこだわる?」と言われそうな気もして筆が、いやキーがちょっと重いのですが...
たとえば女性が自分の配偶者を第三者に対して話すとき「主人」を使う人がいます。
多勢だと思います。
「主人」と云う言葉を使う方のとっては、それがその人にとって身近な人が習慣的に使っている言葉だからだろうし、または「主婦」に対置する言葉として「主人」と云う言葉があると判断しているなら、使うことに何の抵抗もないと思います。
が、女性が配偶者を「主人」と呼ぶようになった由来(と思われるもの)を知ってしまったので、それ以来、「主人」の語を使わなくなった...という人もいます。確か「サラダ記念日」の歌人さんもそういったことを書いていたように思います。
私も文章の上では自分の「夫」を「主人」とは表記しませんが(いや、実際私にとって「主人」というイメージでもないので)、「主人」という言葉を使う女性に対して、いちいちそれを差別的な言葉だから使わないように云々 などとレクチャーしたことはないし、そんな気もありません。使いたい人は使えばいいと思っています。
語源的に差別に根ざした言葉はいっぱいあると思うし、自分もそれと知らずに使っていると思うので。(ハンディキャップ(障害者)という言葉は、「帽子を手に持つ」意で、もとは障害者が手に持った帽子にお金を恵んでもらうところに由来すると、どこかのサイトに書いてあった)
私は「言葉にこだわる」「うるさい」「まじめな」ほうなのかもしれません。(じつは内田「先生」と書いていいのか内田「さん」と書いたほうがいいのか迷ったのですが、前にコメントされている方に習いました。「先生と呼ばれるほどのバカじゃなし」という言葉もあるし、直接の師弟ではないので...)
それで、「君が代」の歌詞についてですが、私はコレを「天皇陛下(君)が統治する世の中がいついつまでも続きますように」という意味だと解釈しているので、国歌として歌うことにはひっかかっています。
どこかで、「君=あなた=お友達のこと」という意味で児童に教えているところもあると聞いたこともあるのですが、「君=お友達」というのは、逆に、歌に対する「冒涜」のように思いますが。
国歌斉唱で「君が代」を歌う(ことに抵抗のない)人はこの歌詞をどう考えているのか知りたいです。
考えられることとしては

(1)「君が代」の「君」は「君=あなた=お友達のこと」だと思うから、国歌としておかしいとは思わない。(「主人」を「主婦」に対置する言葉だと思って使うのと同様?)

(2)「君が代」の「君」は「天皇」だと解釈したうえで、それが国歌としてふさわしい歌詞だと思うから歌っている。(「主人」の明治時代頃の語源を知って、そのとおりだと思うから使う?)

(3)国歌だから歌うのであって、歌詞の意味について考えたことはない。(身近な女性たちが自分の配偶者を「主人」と呼ぶので、それに倣って自分も「主人」という語を使う?または「主人」という言葉について考えたことがない?)

(4)「君が代」の「君」は「天皇」だと解釈しているけど、国歌だから、しょうがないので歌う。(「主人」という言葉はおかしいと思うけど、皆が使っているので使う)

(カッコ内との比較は多少違ってるような気もしますが、とりあえず、近い感じを並べてみました)

内田先生はどれに該当するのでしょうか。
そして何故(自分の歌の解釈が正しいとしたら)「天皇の御世が続きますように」と歌うことに私が引っかかるかというと、それは、今の天皇の息子の奥さん(奥さんという言葉もサベツといえばサベツですが)の皇太子妃のかたに、「はやく立派な男の子を産んでください」と言うようなものだワサという気がするからです。(考えすぎですか?)(汗)
(直系でなく、傍系の男子が継ぐのかもしれないけど、国民の心情としての合意は得られるのかな。それとも、そのときが来れば、誰もが納得するような演出がなされるのでしょうか)
あの歌詞については、どう考えたらいいんでしょう。
いっそ「民が世」だったら、私も抵抗なく歌えると思います。

メールはもう少し長いのだが、とりあえず中心的な問いだけ採録させていただいて、以下に私からの回答を示す。

こんにちは。
問い合わせについてお答えできる範囲でお答えします。
「日の丸」や「君が代」は別に歴史的に根拠のあるものではないと思います。
「菊の紋章」に「ひむがしののにかぎろひのたつみえて」でもべつに支障はなかったでしょうし、いまから「五三の桐」と「青い山脈」に変えても別段誰が困るというものでもないでしょう。
「君が代」に曲をつけたのはイギリス人とドイツ人です。外国からの国賓を迎えるときに国歌吹奏がないとかっこがつかないというので明治初年にどたばたと即製したものだそうです。
いずれにせよ、国名とか国歌とか国旗というのは、「名刺代わり」のようなもので、それがないと国連とかボクシングの世界タイトル戦とかワールドカップとかいうときに、いろいろ面倒です。
とりあえず、そのことにはご同意いただけるかと思います。
極論すれば、国歌や国旗は「内田樹」という私の個人名の「字面」と「音」のようなものだと思います。
「内」も「田」も「樹」も、それぞれの文字の意味や音は私の人格性とは何の関係もありません。ただの字であり、ただの音です。
別に意味なんかありません。
でも、「内田」という姓を選んだ遠い祖先と、私に「樹」という名をつけた名付け親の淡い「願い」のようなものはあったのかもしれません。
「君が代」についてもそういうふうに考えています。
歌詞にも曲にも、たいして意味なんかない。ただ漠然とした願いのようなものがこめられている、と。
視点を変えて考えてみましょう。
「君が代」を英訳したらどうなるでしょう?
May your reign last forever
となるはずです。
この英訳詞を英語話者に見せて「どうです、軍国主義的・天皇主義的なひどい歌詞ですな」と言ってみても、たぶん同意してもらえないと思います。
「え、どこが?」
と反問されるのではないでしょうか。
キリスト教徒なら「この you というのはもちろん『主』のことですよね? やあ、いい歌詞じゃないですか」と言うかもしれません。
天皇はまごうかたなきヒューマンビーイングです。
その人間天皇に向かって「last forever」(いつまでも死なないでください。100年も1000年も生き続けてください。地球が滅びても、太陽系がなくなっても、ずっと宇宙空間をさまよっていてください)なんて歌う人はいないはずです。
生きている人間に向かってその不老不死を予言することは、ほとんど「呪詛」に等しいからです。
この reign は論理的に考えて人間のそれではありえません。
古今和歌集から取ったこの歌詞は「天皇が神」であった時代(つまり、その永世を祈っても呪詛にならない時代)のものです。
「君が代」はですから「神の治世」と読むべきものでしょう。
カントローヴィッツという人は「王には二つの身体がある」という理説を語っています。

「王は二つの身体を持っている。つまり自然的身体と政治的身体である。彼の自然的身体は死すべき身体であって、自然や偶然によるあらゆる不確実性や、幼児期や老年期の虚弱性、他の人々の自然的身体に起こるのと同様の欠陥などに左右される。しかし、彼の政治的身体は、見ることも手を触れることもできない身体であって、政策と政府から成り、人々を導き、公共の福利を進めるためのものである。この身体は自然的身体が支配されているような幼児性、老化、およびその他の欠陥や弱点を完全に免れている。」(『王の二つの身体』)

17世紀の英国革命のとき、チャールズ一世は議会と戦って殺されましたが、議会はこの死を「チャールズ一世の名において」命じました。
チャールズ一世の政治的身体が、チャールズ一世の自然的身体を滅ぼしたのです。
私たちが Last forever を願うことができるのは政治的身体だけです。
いま皇居に住んでいて1933年生まれの(姓のない)明仁という名の人物の自然的身体は、日本国民がどれほど「君が代」を熱唱しても、いずれ老化し、損壊するでしょう。
永続するのは彼の(というより歴代の日本の「政策と政府」が統合軸に掲げてきた)政治的身体だけです。
「君が代」の「君」もまた、「今上天皇」という自然的存在ではなく、カントローヴィッツ的に言えば、「政策と政府から成り、人々を導き、公共の福利を進めるための」政治的身体(私たちの社会集団を守護してくれる地方神的存在)という意味に読み替える方が、解釈としては自然だろうと私は思います。
そういう漠然とした意味で「私たちの守護神さま、どうぞいつまでもこの地域をえこひいき的に守ってください」と歌うことは(身勝手な願いですけれど)、別に眼を光らせて咎め立てするほどの歴史的悪行だと私には思われません。
でも、私はこれまで日記で書いてきましたように、この国歌を歌うことに心理的な抵抗を感じています。
それは歌詞の個別的な字句にこだわりがあるからではありません。
「国歌」というのは世界中どの国の国歌でも同じ人類学的機能を果たしています。
それは「自分の国をほめたたえる」という機能です。
その本質は校歌とか寮歌が「自分の学校をほめたたえ」「自分の住んでいるエリアをほめたたえる」のと変わりません。
それは「そういうもんだよな」と思って聴いていれば何でもないけれど、「そういうのって、はずかしくないのかよ、おい」と思って聴くと、なんとも気恥ずかしいものです。
私はよその国の人が自国の国歌を歌っているのを聴いてもあまり不愉快にはなりません。でも、日本人が日本国歌を歌っているのを聴くと、ざわざわと寒気がします(自分で歌っているときも寒イボが立ちます)。
それは歌詞が軍国主義的だからではありません(ラ・マルセイエーズの方が「君が代」の何倍も軍国主義的です)。
歌詞が天皇礼賛だからでもありません(ゴッド・セイヴ・ザ・クィーンの方が「君が代」の何倍も王室賛美的です)。
「自分の国をほめたたえる」というふるまいが思い切り気恥ずかしいからです。
だから、仮に「君が代」が廃止されてかわりに「青い山脈」でも「東京行進曲」でも「東京ラプソディー」でも、そういう歌詞的にノープロブレムの歌曲が国歌に採用されても、私はやはり寒イボを立てながら歌うでしょう。
それは自尊心に膨れ上がり、自信にあふれ、自慢話をしまくるだけでは足りず、「自分をたたえる歌」を歌い、「自分の旗」をつくって振り回す人間を見たとき、あまり尊敬する気にならないのと同じ感情の働きです。
私が国歌に感じる抵抗は「君が代」の歌詞に対する思想的抵抗ではなく「国歌を歌う」という行為そのものに対する心理的抵抗なのです。
自国をほめたたえる「べきである」という議論と、自国をほめたたえる「べきではない」という議論のどちらにも私は与することができません。
私がこの問題について言いたいのは、自国をほめたたえる歌を高唱したり、自国の旗を振り回したりするのは「はしたない」という含羞の感覚が、人間社会を住みやすくするためには、けっこうたいせつなのではないか、ということに尽きます。
「君が代」を歌うこと、日の丸に敬礼することに私たちより年長の世代のなかにはつよい抵抗を感じる人々がいます。
彼らは別に歌詞にこだわっているわけではありません。
その国歌がうたわれたときの歴史的文脈や、その旗がうちふられたときの「情景」を思い出して、苦痛を感じているのです。
それは国歌や国旗の罪ではなく、その国歌を掲げて行動した、ある時代の「政治的身体」の罪です。
それがどんなふうに利用されたのか、その政治的・歴史的な意味について考えることの方が、歌詞の意味を問うことよりずっとたいせつだと私は思います。
それから追記ですけれど「ハンディキャップ」についてのインチキ語源を信じてはいけませんよ。
Handicap は「帽子 (cap) の中の当たりくじを手 (hand) で引いた者が罰を受けたゲーム」(hand in cap) が語源とどの英和辞典にも書いてあります。
「言葉にこだわる」ということには言葉についての新しい解釈や語義を示されたときは、とりあえず辞書をひいて「裏を取る」くらいの作業は含まれていると思いますよ。
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