ジュンク堂と沈黙交易

2004-04-03 samedi

春休み最後の一日。
何も用事がない日というのは結局春休みのあいだこの一日しかなかった・・・ので、謡本を買いに三宮に出かける。
『葵上』『屋島』『殺生石』『安達原』の四冊を購入。
なんだか恐そうな話ばっかり。
ひさしぶりに本屋に来たので、コミックを大量購入。
川原泉『甲子園の空に笑え!』吉田秋生『夢みる頃をすぎても』『ラヴァーズ・キス』森田まさのり『ろくでなし Blues』西原理恵子『鳥頭紀行』『アジアパー伝』。
川原泉や吉田秋生は、るんちゃんが洗いざらい東京に持っていってしまったが、ときどき発作的に読みたくなる。
川原泉の『銀のロマンティック・・・わはは』がウチダは好きなのである。
名越先生の『ホムンクルス』を探すがみつからないので、あきらめて Amazon で買うことにする。

そういえば、どうしてインターネット書店が「アマゾン」なんていうネーミングにしたのかについて朝日カルチャーセンターでの講演中に発作的に思いついたので、忘れないうちに書きとめておく。
インターネットでお買い物というのは「沈黙交易」の今日的な甦りであるという仮説である。
「沈黙交易」というのは、交易の起源的形態で、ある部族と別の部族の境界線上にぽんと物を置いておくと、いつのまにかそれがなくなって代わりに別のものが置いてある・・という、交易相手の姿も見えず、言葉も交わさない交換のことである。
ウチダの考えでは、この沈黙交易こそが交換の本質的・絶対的形態であり、これ以外の交換はすべてそれが堕落したものに他ならない。
交換というのは「私が欲しい物を君が余らせている。君が欲しいものは私が余らせている。おや、ラッキー。じゃあ、交換しましょう」というかたちで始まるものではない。
そういうのは「欲望の二重の一致」と言って、「ありえないこと」なのである。
交換においては交換される物品の有用性に着目すると交換の意味が分からなくなる。
交換の目的は「交換すること」それ自体である。
考えてもみたまえ。
どうして大航海時代なんていうものがあって、ひとびとが海図のない旅に乗り出したのか。
それはヨーロッパはすべてが「既知」になってしまって、もう「姿も見えず、言葉も交わすことができない交易相手」がいなくなってしまったからである。
そういう交易相手を探して、ヨーロッパ人はアジアやアフリカやアメリカにぞろぞろ押しかけたのである。別に胡椒やら砂糖やら煙草やらお茶やらが「欲しかった」わけではない。そんなものなしでそれまで何千年も気楽にやってきたのである。どうして命がけでそんなものを手に入れる必要があるだろうか。
人間は交易という行為そのものがしたいのであって、交易されている「もの」には副次的な意味しかない。
20世紀になって、地球上から「暗黒大陸」がなくなって、それと同時に「言葉をかわすことも、姿を見ることもない交易相手」は消滅してしまった。
そこにインターネットが出現して、私たちはふたたび沈黙交易をすることができるようになった。
だから、「アマゾン」なのである。
「マットグロッソ」の森に向けてそっと電磁パルスを打ち込む。しばらくすると宅急便の配達のお兄ちゃんが「ぴんぽん」をチャイムをならして「はい」と本やCDを届けてくれる。
アマゾンさんがどういう会社組織で、どこに本社があって、誰がそれで利益を得ているのか・・・私たちは知らない。というか知りたくない。
知らないからわくわくするのである。
私たちが交換に求めているのは純粋状態のコミュニケーション、すなわち「私の理解も共感も絶した他者と、私はなお交換をなしうる」という事実を確認することなのであり、そのような能力をもつことで人類は類人猿と分岐したのである・・・
という話。
だから携帯メールというのも新手の沈黙交易なんですよね、という話に繋がるのであるが、どういう理路でそうなるのかはみなさん自分で考えてね。

人文科学のコーナーで自分の本がどんなふうに配架されているのかチェックにゆく。
私の本は「西洋現代思想」のところに置いてある。
『子どもは判ってくれない』や『疲れすぎて眠れぬ夜のために』のようなお気楽エッセイがどうして「西洋現代思想」に分類されるのか。ジュンク堂さんの分類原則はミステリアスである。
家にもどってはっぴいえんどを聴きながら、西原理恵子をげらげら笑って読む。
ひさしぶりの休日気分。
でも、今日でおしまい。明日からは書類仕事が待っている・・・
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